北アフリカ地域の紛争を眺めながら”メディア”の立ち位置について考える
チュニジアに引き続き、エジプトで大騒ぎになっています。混乱はツキモノとはいえ、一度安定してしまうと比較的長期政権が続くのがアラブ系諸国の特徴ですが、どんな世界であっても長期政権を維持してゆくうちに特権階級の成立やら何やらが絡まってきたりして、結果的にまた紛争を引き起こしてしまう火種になってしまうというのは、実はそれほど新しい話ではないわけです。
で、それが市民革命みたいな話になるのか、政権中枢に近いところでのクーデターになるのかとかは色々なわけで、このあたりを掘り起こすってのは世界史のお勉強の基本だったりします。もちろんその外側に地政学ってのがまきついているんですが、国境を跨いでの紛争っていうのが成立しにくくなっている現在としては、分離独立以外にそれほど大事にはならないのが今の国際情勢の流れ、だったりします。
で、チュニジア然り、エジプト然り、SNSを利用した対政権運動の広がりってのがクローズアップされているんですが、実はその動きってのは非常に局所的で、その動きを日本から本気でトレースするなんてのは至難の業。ということで、その動きを知るのはマスメディアの報道を通じてというコトになります。
マスメディアの没落とSNSの興隆論の中で、SNSの興隆を伝えるのは実は結局マスメディアという図式。ふむ・・・
例えば日本にアラブの言葉を解する人がどれほどいるか知りませんが
少なくとも私の周りでアラブの言葉を読み書きできる人はいません。タイ語とかハングル、あるいはヘブライ語あたりまでだと文字として認識できる範囲のギリギリですが、アラビア語に到っては文字面自体が既に記号言語というよりも文様としか認識できません。これはある意味尤もで、何しろ普段日本にいて接する事ってのが殆ど無い。たまに輸入食品のパッケージの能書きとかで見る事があるくらい。
となると、たとえエジプトの誰それが何をTweetしてるとかFacebookで何を書いてるかとか、あるいはどこのグループがどんな感じでデモへの動員とかをやってるかなんてのは全く理解できないわけです。
となると、当然通訳が必要。
でも、ひとつひとつのTweetとかを追いかけても全然意味が無いわけで、ある一定の時間軸とかタイミングでそれらを切り取って総括して伝えてくれる「媒体」が無いと、結局のところ、何だかわからんわけです。
「媒体」ですね。媒介するから媒体。
ここらあたりがメディア、つまり媒体としてのSNSのモデルの限界のような気がします。ちなみにブログの場合、特に実名なりある一定の看板の元でのブログの場合にはそれ自体が何かしら意見を表する場であるという定義が出来ますから、これは広い意味でメディア、つまり媒体という性格を持つ事があるよねとは思っています。
いわゆるSNSとブログの立ち位置の違いがあるわけです。
間違いないのは、TwitterなりFacebookなりが彼の地でいろんな局面で便利に利用されているのは事実。でも、それはかつてのアジびらとか壁新聞、闇で運営されていた地下ラジオとかと、果たしている役割は基本的に変わらない。もちろんそれが公にある一定の目的を持って運営される事もあったりするんですが、御興味のある方は、たとえばアメリカのVOAとかイギリスのBBCの海外放送がそもそもはどんな背景を持っていたかを調べてみると結構面白い話が出てくると思います。
ってのは置いといて・・・
メディアの立ち位置 と メディア批判の立ち位置
なんだかメディア批判っていろんな側面の話を全部まとめてしまうとわけが判らなくなるんですけど、メディアが成立した主旨、本来持っている性格、制作能力や取材力、伝播力、免許制度を含めた利権回りの絡み、論評の立ち位置や論調の問題などなど、それぞれに分けて考えないとダメなんじゃないの?とかちょっとだけ思うんです
あまり深入りしませんけど。