パッチワークにある歴史的経緯
歴史的・・・と言うほどではないにしても、有る意味諸悪の根源とも言われるパッチワークにも、そこに到る経緯があるわけです。決して意図してそういう形になったわけでもないし、必要であれば変えればよい。でも、やっぱり変えづらい理由もあったりする。とかく世の中そういうものですね、と言ってしまうと身も蓋も無いけれど。
自分に責任のある部分、誰かに責任がある部分、そして行きがかり上どうしようも無い部分
世の中の動きってのは全てが論理的な一貫性を持っている訳が無く、何かしら矛盾なり無理なりを抱えているわけです。しかもそれが一定ではなく時々刻々変化する。そのなかである時点では最良と思われた対策の積み重ねがある瞬間に「これって場当たりすぎない?」という評価になってしまう。
その瞬間に切り取ればその通りだし、そういう判断も仕方ないよねというとそれまでですが、与件を予見できない状況のなかでモノゴトを進めなくてはいけないような場合には、どうしようもない。でも、それで立ち止まってはどうしようも無いので、何とかする。
じゃぁ、ということで更にパッチワークを重ねるか、どこかでドラスティックに変えるか。その判断自体もそれほど簡単ではない。とはいえ、元々足枷になっている事象の理由も事情も状況もよく判ってるし、そもそも今すぐに何かしないと諸々間に合わなくなる。それも判っている。そうは言っても幾つもある選択肢のどれが正しいのかよく判らない。今のこの瞬間としては正しいかもしれないけれど、単純に目の前の事象にあわせてヒラヒラと体制を変えても結局パッチワークじゃね?と言われてグウの音も出ない。
ふむぅ・・・
不肖岩永、たまには難しい事も考えます。
とかく世の中は難しいものだな、とか。