COP15に見る「船頭多くして船山に登る」の例え、あるいはそれ以上
京都議定書を受けてコペンハーゲンで開催されたCOP15の議論については既に多くの議論がある中、最近は少なくなったとはいえ数限りない会議体の事務局をやったことがある私として思うことが一つ。いわゆる「船頭多くして船山に登る」の例え。でも、今回はある意味、山にすら登れなかったような印象を受けます。
内容があまりに巨大な影響力を持つが故の当事者の多さ
これについての議論の余地は無いわけで、例のCO2の排出量の削減というのが共通の目標である事は事実です。
総論賛成
ただ、参加者がそれぞれの立場で受ける影響が違うことや、それぞれの「国」の利害関係を一身に背負って参加しているというところが、議論の中での意見の集約を難しくしているのは各種の報道やCOP15のWebサイトに出ている色んな情報を見ると、もうそれこそ手に取るように判ります。あちら立てればこちらが立たず、という例えがそのまま実際の場になった訳で・・・
各論反対
というコトになってしまっている。それ自体は確かに残念なのですが、そりゃどの参加者も自分、そして自国の利益を代表して出てきていますから、譲れないところは譲れない。いや、むしろ譲らないという状況。
それこそ国際連合発足時のように各国間での力関係が明確だったころとは訳が違うわけで
国連自体にはたとえば安全保障委員会といった、それまでの議論に対して拒否権を発動することによって議論をある意味強制的に終了させたりする機能が備わっているわけです。これが良いかどうかについては歴史的経緯を踏まえて考えなくてはいけないのですが、両手を挙げて「良いことだ~」と言い切れないのは事実。でもそういった仕組みが無いと、あるいはそういった仕組みを作れるタイミングで出来た組織ですから、それ自体はそういうものであるという認識の下、変えるべき事は変えてゆかなくてはいけないよね、というのが国連改革の柱だったりするわけですよね。
それに対して今回のCOP15にある環境問題というのは影響が全世界的であり、かつ本来は何らかのパワーバランスの上で議論されるべきものではないというところからスタートしているので、とにかく各参加者は等しくある一定の権利と決定したことに対する義務を負う、ということで、システムとしては非常に民主的であるといえるのかもしれません。
ただ、結果的に中で幾つかのグループが(元々存在してるわけですが)それぞれの立場での意見に基づく結果を求めるという構図が、最終的に京都議定書の次を生み出すところまでたどり着けないまま「"taken note of"」、つまり議論の結果に留意する、という形でしか次に残せなかったという事実は厳粛に受け止めるべき内容なのだとは思います。
そもそもWebサイトにおけるこの一文が色んなことを物語っているわけで・・・
取り様によっては敗北宣言ともいえるんじゃないかと思います。
多極化が更に進んだ先での、フラットな立場での合意形成の難しさ。しかも何らかの企業体とか組織体ではなく、その参加者の多くが独立国家であることの難しさ。そしてなんら具体的な力をそれ自身では持っていない国連という組織。単純な好意や思い、あるいは「あるべき論」だけではモノゴトは何も進まないという一つの大きな例と言えるのかもしれません。
良い悪いの議論とは別の世界。その現実。
じゃぁどうするのっていう話は当然避けて通れない訳ですが
環境問題を議論するのは本旨ではないので特にココでは触れませんが、議論をまとめる、組織をまとめる(国連が組織かどうかという別の議論はありますが)、全体を同じベクトルに向けて未来に進むといった行動原理をどのように実際の形として進めるかという部分での、一つの壮大なケーススタディという見方も出来るのかもしれません。
単純な組織論に置き換えることも出来そうにないし。
さてさて・・・