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通信業界特殊偵察部隊のモノゴトの見方、見え方、考え方

コンテンツとしての「音」と「ラジオ」という媒体

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大昔からラジオが大好きなワタシ。映像の世界はテレビと映画で、個人でビデオを持つなんて大変なことだった頃、必死に貯めた1000円札三枚を握り締めてレコード屋(死語?笑)で必死にLPの棚にかじりつき、ラジオから流れる曲をラジカセで録音し、親に隠れて深夜放送を聴き、海外の短波放送・・・ 昔話と言ってしまうとそれまでですが、そういう原体験がワタシの音に対する、そしてラジオに対する愛着心の源泉なのかもしれません。

 

音は音だけでコンテンツとして成立できる

もちろん映像と重なる音は大事。でも、たとえば映像だけじゃ成立しないわけです。音が無いとなんだか変。それに対して音はそれだけで成立する。それこそ50年後とかにどうなってるか判りませんけど、少なくとも今でも音は音だけで成立するんですね。

 

意識しない音との接触状況

映像は見ている側に見ている意識を持たせやすいんじゃないかという気がします。それに対して音は基本的に常に回りにあるんで、たとえばどこかで流れている音が何なのかを意識することって以外と少ない気がします。たとえばタクシーだったり、喫茶店やなにかのお店だったり、あるいはオフィスだったり。

そこで聞こえている音の音源はお店の人のiPodだったり有線だったり、もちろんラジオだったりするわけですが、たとえばそれがラジオだとしても、放送局のどの番組かを意識することってあまり無いような気がします。でも何か聞こえていることが多い、という気がします。

 

送り手の意識、聞き手の意識

以前のエントリーや他の方のブログエントリーへのコメントなどでも触れたことがあるのですが、たとえばLPがCDになり、いまや単なる音源となったことによって多くの”アルバム”がストーリー性を失いつつあるとワタシは感じています。極論すると、最初からブツギリで成立する曲をひとつのメディアにまとめたのが今のCDじゃないかという意見です。

ただ、それを放送として送る側からすると二つの考え方がある気がします。たとえばトーク番組等の場合、番組の中でどんな曲をどこで挟むという構成が一応はあるわけです。そこでの選曲がひとつの番組のカラーになると言う気がします。
一方いわゆるカウントダウン系の番組はその瞬間にキテる曲を掛けるわけで、曲の選び方には主体性はない。でも限られた番組の時間枠の中でどの曲をどこまで流すかについては送り手の意思があるわけです。もちろんいろんな理由(と利権?笑)がまきついてくるものですが、一応送り手の意思はある。やはりそれもひとつのカラーになると言う気がします。

方や、受けて側からすると、自分で聴きたいものだけを「携帯音楽プレイヤー」に落として好きなように聴くというスタイルもあるわけです。送り手云々ではなく、単純に聞き手の欲求。これはウォークマンが出てきて音楽を持ち歩けるようになってから常に存在する世界なんで別に新しいことではないですが。

ということで、乱暴にまとめると、意識の変化がコンテンツの立ち位置を変えてしまったわけで、それが良い悪いという話ではない、という気がします。もちろん音に限ったことではないですけどね。

 

ラジオの時間

話の出口が自分でも見つからないのですが、結局のところ送り手の意思と受け手の意識の間での落としどころを常に探して変化しているんだろうなと思います。当然映像についても同じなのですが、目立たない分微妙な立ち位置に居るような気がします。とはいえ、一日の生活の中で意識するしないに関わらず以外と接触時間が長い音の世界。そして、音の世界の中でも何らかの送り手の意思があるラジオという媒体。

ワタシ自身がラジオの味方だから、という話かもしれませんが、なんだかもう少し使いようがある気がしています。

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