提供するものの価値観の議論が欠落してないか
有料無料云々、あるいは収益モデル云々という話があちらこちらで出てきていますが、なんとなく腑に落ちないのが、そこに提供されるものの価値観とそれに対する対価の議論。なんなんだろう。このモヤモヤは。
なんだか全然頭の中が晴れません。
サービスは無料であるという価値観
そもそも提供されるものの価値は最大化するべきだし、それに対して支払うコストは最小化されるべきである、という考え方があります。経済学でいう価格決定理論の場合、多くが需要と供給のバランスで価格が決定されるという理論が紹介されますが、一方で提供する側とされる側の価値判断のバランスでも価格が決定されることも多くあります。何であれ、供給する側にはコストがかかるわけで、そのコストをまかない、適正と思われる利潤を乗せたものが供給する側の決定する価格。それに対して提供される側としては支払う金額は最小でありたいと思うのは人の常。特にそれが個人に属する支出であれば最高。裏で誰がそれを負担しているかなんて知ったこっちゃ無い。ここまではOK。問題は、そもそも「サービスというものはサービスなんだから無料でしょ?」という議論。これが問題。
一体、どこの誰がサービスは無料の事だと言う概念を作ったんだ?
サービスは無料で提供されるものの別称であるという考え方
確かに個人で使うものなら無料がうれしい。ワタシ自身、Googleの無料のサービスが突然止まってしまうと友人とメールも出来なくなるし、家族の予定もわからなくなる。デジカメで撮った写真を友人や親に送るのも大変だし。本来それらの機能を利用するためには一定のコストを支払ってソフトを買ったり、それらを動かすPCを手に入れたりする必要があったわけですが、とりあえずBrowserが動けば何でも良くなってしまった。GoogleがSoftwareの対価と言う概念を変えてしまったわけです。もっとも、そのサービスを使うために何らかの通信回線が必要なわけで、この部分については自宅の場合には自分でコストを支払っているわけです。ただ、これも月額で定額になってしまうと、急にお気楽になってしまう。かつてのダイアルアップ従量課金の時代はメールをオフラインで打って、一気に送信&受信し、終わると速攻で接続を切るみたいな職人芸をやっていたわけですが、いまやそんなの気にする必要があまりない。ただ、ワタシ的にはここまでは経緯がわかっているからOK。
問題は、それとは別にそもそも「サービスというものは無料で提供されるものの別称である」という考え方がどこかに根付いてしまっているような気がする部分です。
対価は価値に対する対価という考え方
何にしろ、あるものを誰かに提供するためにはコストがかかります。コストをまかなえなければ止めるしかないのですが、逆に言うと、適正と思われる対価を得られないものは、対価の設定が間違っていたか、あるいはそもそも対価に見合う価値を提供できないかのどちらかという暴論も成り立つような気がします。
たとえばビジネスの場合だと、1億円の利益を上げるための100万円をサービス利用の対価としていただく、あるいは機器の対価としていただくというのが、ひとつのものの見方としてあると思います。極論ですよ。極論。でも、見方を変えるとそういう言い方になるわけです。その場合にはお客様が具体的にあげる利益と言うものを実現するためという、一歩間違うと騙しのテクニックになる言い方も出来てしまいますが、いずれにせよ、何かしら貢献するための一種仕入れみたいな側面が無きにしも非ずです。
でも、問題は、それが、利益を生まない個人向けのものであるときです。判断基準として受け取れる価値は最大であり、かつコストは限りなく無料に近くというところに限りなく近づいてゆく気がします。
価値と対価に対する例証(極論ですが)
先のGoogleの例で言うと、無料で提供できるスキームが上手く回っているうちは良いですが、それをそのままユーザーに転嫁することになると、一体どれくらいの支払いを要求されるのだろうと、ふと気になることがあります。
- 広告主にとっての価値が無くなれば、広告媒体として成り立たなくなります。
- ユーザーにとって価値が無くなれば、対価を支払ってもらえません。
- 広告主にとって価値が低いと判断されれば、当然ディスカウントせざるを得ません。
- ユーザーにとって価値が低いと判断されれば、それ以上の価値を提供するところに逃げられてしまいます。
- 広告主にとって高い価値を提供できると判断されれば、広告媒体として独り立ちできます。
- ユーザーにとって高い価値を提供できると判断されれば、喜んで対価を支払ってもらえます。
これらはある意味極論で、実際にはケースバイケースですから一概に結論付けることは難しい問題ですが、どんな場合であっても意識をしておく必要があると思っています。
・・・というか、そんなことを常日頃仕事の中で考えている状態ではあるのですが、この議論は他山の石というには余りに近くの話題なもので・・・
すいません。文字量に対して全然まとまりが無くて。