【微妙に週末ネタ】贔屓の引き倒し
人の好みはそれぞれ。好みの強さもそれぞれ。作り手が想像すらしない思いで迎えられたり理解されたりするコト自体は受け手それぞれの話で、その思いから結果として更に良いモノが生まれれば素晴らしいことなのですが、その思いがある一定のレベルを超えると、ちょっと面倒なことになることがあります。多様な価値観は存在するべきで、それを否定するものではありませんが・・・ 人であれ、モノであれ、サービスであれ、何でも良いのですが、ここでは特定の何かを取り上げているのではなく、また、作り手や送り手を一方的に擁護するものでもなく、あくまで一般論としての話、です。
これはこういうモノです < これはこうあるべきモノなんです
モノであれサービスであれ、基本的に送り手と受け手が存在するとします。たとえば送り手は送り手の意志と諸般の事情により、ある一定のモノを作ったとします。
それに対して受け手は、そんな送り手の事情とは全く別に自分にとって一番あって欲しいカタチを考えていることがあります。自分がそれを使う、或いは所有することによりどうなるのか、あるいはどうなりたいからそれを自分のモノにするかを考えます。
でもたとえば手に入れたモノやサービスに100%満足することなく、何らかの不満や今後への期待が生まれてきたりします。そして、それが次はこういうモノを探そうというキモチではなく、どこかで「コレはこうあるべきだ」という確信に変わることがあります。「私の貴重な意見を是非活かして欲しい」というキモチもその通りかもしれません。そしてその思いをカタチにして欲しいと色々なカタチで主張を始めることがあります。
もちろん、誰かに何かを提供するためには何が求められているかを知る必要がありますから、その意見自体はとても大事なものです。でも、ひょっとして・・・
コレが第一段階?
これはこう使ってもらうことを想定しています < これはこう使えるべきモノなんです
思いをカタチにして欲しいと活動する中で、自分が正しい、或いはそれがみんなの意志だと思うようになることがあります。「ココを直せば私が基本的に気に入っているコレをみんなも気に入ってくれるに違いない」と思い始めるようになる事があります。
作り手や送り手からすると、ある一定の条件や制約の中で何かを生み出すわけですし、オーダーの服か何かと違ってある一定の幅での利用条件があったりするわけです。当然、何らかの部分をあきらめる必要があることもあるでしょうし、ある人にとっては無駄だと思えるようなモノや、なんでこんな事になってるんだ?と思える状態になっているモノもあるかもしれません。
でも、これはこう使えるべきモノなんですという事を考える事自体はどうって事無いこと。
ただ、その思いが目の前のモノに対する不満に転嫁され、それ自体の送り手への不満や不信に転嫁されて行くことがあります。
コレが第二段階?
これはこんなコンセプト < これは(きっと)こんなコンセプト(のはず)
金額の多寡はともかく、やはり自分で対価を支払うのであれば、支払った対価に見合わないと判断すれば、それが色々なカタチで不満や不信として固定化されてしまうことがあります。
受け手には受け手の思いと事情があるモノですし、送り手には思いと事情があります。あるモノが今までとは異なる思想に切り替わったり置き変わったりすることは、それがモノでもサービスでも充分あり得ることです。その事情をどこまで説明するのか、そもそも説明責任が存在するのかなどは、受け手と送り手で立場が異なる以上、全く同じ立ち位置で考えることは難しいのではないかと思います。そしてその結果として受け手側に固定化された不満や不信の断片がある瞬間に健在化し、何らかの具体的な行動に現れ始めることがあります。
もちろんその段階で、そのモノから離れて行けば精神衛生上も具合が良いのですが、私が何とかしてあげないとという思いをとても強く思ってしまうことがあります。
ココまで来ると第三段階?
(送り手としての)私の思い < (受け手としての)私の思い(いれ)
私の思うコトを、それをこれだけ一生懸命(あなたの事を)思って考えてあげている私のために何もしてくれないし、何かしても全然違う方向に走るし・・・と思ってしまうことがあります。
なんとかしてあげたいとか、こうすれば良いのにとかいろんな思いがどんどん沸いてくることがあります。
もう止まりません。
古い人間の私は思わず「もうどうにも止まらない」と昔の歌謡曲を口ずさんでしまいますが、その何とかしたいというキモチが起こす行動を誰も止められなくなることがあります。それを正義感と置き換えることが出来るほどの強い意志の場合は、なおさらです。
そろそろ最終段階です。
なぜ私の思いをカタチにしてくれないの?
ココまで来ると贔屓の引き倒しが生まれます。好きだから、基本的には気に入っているから、だからこそこうあって欲しいという強烈な意識が、声高に批判という行動になってしまうことがあります。
決して有り難迷惑とは言わないまでも、本来の趣旨や思いとは異なる結果を生んでしまうことにもなりかねない気がします。そうなってしまうと結果的に誰も幸せになれないような気がします。
単なる道具ではないようなモノ、個人の意志が色濃く反映されるようなモノであればあるほど、その傾向が強い気がします。
難しいものです。
あ、一般論ですよ。あくまでも、一般論。