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ビジネスモバイルITベンチャー実録【朝メール】から抜粋します

運というものがこの世に無かったとしたら?

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おはようございます。

1.5℃ 1003hPa @5.15am。今朝も車の窓ガラスが凍っていました。

===ほぼ毎朝エッセー===

「1年分の運」、「運が回ってくる」、「運を使い果たす」。

よくこのような表現をしますよね。まるで、運という有限のものがあって、それを自分もたまに使える、トランプの切札のような感覚です。でも、果たしてそうなのでしょうか。運というものが存在して、それは有限なのでしょうか?

例えば運というものがこの世に無かったとします。幸運も悪運も無い世界を想像してみましょう。すると、何かでいい結果が得られる人とそうでない人。その違いは、何から出てくるのでしょうね。

そのものを得ようとして、それを諦めずにいる。諦めの悪さのようなものが効いてくると思いませんか。執拗さ、ねちっこさ、そういった余りカッコよくないもの、こういう見苦しいもので、達成・非達成の差がでてきます。

飽食の時代、ものも飽和している時代、モノへの執着が無くなってきているという現代日本です。何かを達成するかしないか。大きな違いが執着心の強弱にあったとしたらどうでしょう。余りにもあっさりと目の前のことを逃していると思いませんか。

先日、ある会社の経営幹部研修の場で質問がありました。「ベンチャーと同じ成功を会社の中でも達成できたでしょうか?」難しい質問だと思いました。その場で考えてみました。そして答えたのが、会社勤めの中ではきっと無理だったかもしれないということでした。失敗しても給与が出続けるという中では、諦めの良さが災いするのです。

うまく行かなかったら路頭に迷う。退路が断たれている。そこから生まれる、執着心とか粘り、カッコ悪いものが大切なようなのです。そして、それが無ければ、最後のひと頑張りまで到達できないのです。そして、ギリギリの最後のひと頑張りが道を開くことってよくあります。その時に、皮肉なのですが「運が良かった」と、心底思えます。

運は有限なものではなく、持ちまわっているものでもないです。諦めの悪さで執着心を持っている人のところに回ってきます。聞き分けの悪い子供が何が何でも欲しいものを手に入れる。あるいは「憎まれっ子世にはばかる」的な現象かもしれません。

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