キレイなモノと汚いモノとの境界線
おはようございます。
今朝は2.5℃ 1012hPa @5.20am。風はほとんどありませんが冷えています。
===ほぼ毎朝エッセー===
たまにCool Japanという番組を見ています。年始特集で、外国人が驚いた日本関連の動画特集がありました。その中で、コンビニの店員が店前のごみ箱を清掃していました。日本では当たり前のように見かける光景ですよね。
ところが、ゴミ箱を清掃する動画を見た外国人の多くは、「それはあり得ないことだ」という反応をしていました。「ゴミ箱は汚いモノ、それを自分が手で清掃するなんて...」。「汚いゴミ箱はそのまま清掃車に入れて運ばれていくのでいい」。
確かにゴミ箱を触るのは嫌でしょう。でも、自分の部屋のごみ箱だったらそれほど抵抗はありませんよね。ところが、外のゴミ箱は、何が入っているかすらわからない、そんな恐怖感も手伝い、いきなり汚いモノになります。汚いモノを避けたいという気持ちはわかります。
ゴミ箱の中身のゴミだって、もともとはキレイなモノです。ところがそれは、どこかの境目で汚いモノへと変化するのです。そして、他人のモノは、より汚いモノだという認識になり勝ちです。
トイレもそうですね。公共のトイレになると、それは汚いモノ。他人のモノは汚いモノ。その意識がより強く出てきます。日本での意識は、他人のモノも自分のモノに近いものとして考えるような、そういった許容性が少し高い傾向があるようだと認識させられました。これはきっと、日本人が誇れることだと思います。
キレイなモノと汚いモノ。その境界線の認識に、社会的な活動を決める、かなり重要なヒントがあるのではないか。このようなことを、番組を見て思っていたのでした。