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ビジネスモバイルITベンチャー実録【朝メール】から抜粋します

ダメで元々。ダメモトでいいじゃないか。前例がないならそれこそやってみよう!

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おはようございます。

雨は上がり今朝は晴れ空ですが、空気は冷たいです。
3.0℃&1000hPa@5.10am。気圧が低くて晴れ。西高東低。まだ冬型の気圧配置です。

===ほぼ毎朝エッセー===

□□父の思い出

先週の土曜日は一周忌も終わった父の「偲ぶ会」を彼の友人が主催してくれました。ありがとうございました。その際に、遺族代表でご挨拶をさせてもらいました。父はよく、「ダメで元々。ダメモトでいいじゃないか。前例がないならそれこそやってみよう!」と、「ダメモト・サカモト」精神で新しいことにチャレンジしていた人でした。その時には言いそびれたのですが、思い出し話をひとつ。

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1975年、私が中学生の頃です。父は40才前半のころでしょうか。彼の役職は在英国日本大使館の参事官、日本広報センターというとことの所長をしていました。日本のことを正しく伝えるというのが業務ですね。

当時のイギリスは英国病と呼ばれる時代で、サービスの悪さ、ストライキ多発、教育の衰退など、いいことが無い時代で、文化的にはパンクロックなどがまでが発生した時代でした。つまり廃退的だったわけです。

そこでは、急激に日本車や日本の工業製品が売れ始めていました。そのあおりを受けて、英国の車産業は壊滅的でした。当時の英国人たちは、「車の保証期間はその間に必ず壊れるので、それを無料で修理するためにある」とそう信じていました。一方、日本車はその期間は絶対に壊れないというメーカーの自信の表れでした。

10年もさかのぼった1960年代頃には、欧米ではものが壊れると"Ah hah! that's made in Japan."と、安かろう悪かろうでなんでも輸出していた日本製品の品質の悪さをあざ笑うのが一般的でしたので、品質を大幅に改善した自動車や工業製品は脅威だったのでしょう。

人は未知な脅威を感じると、敵対視します。日本製品へのものすごいバッシングが英国メディアを通じて行われていました。日本車の輸入台数がニュースになって、それを「失業の輸出」と称して連日避難するわけです。

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「日本広報センター長として何をすべきか?」

父は考えたのでしょう。そして一つの仮説にたどりついたようです。

それは、「人と人とが知り合いになれたら敵対視はされなくなるはずだ」というところでした。そのために、日本文化を伝えるワークショップをイギリス各地で開く傍ら、次第にもっと大きなビジョンが見えてきたのだと思います。

「そうだ。失業率が高いイギリス人の若い人を、正統派の英語教師として日本の学校に招くようにしたらいいのではないか?本当の日本を見てもらおう。そうすれば好きであれ嫌いであれ人と人。メディアが扇動する顔のない日本人という状態は改善できるのではないか?」

思い立ったらやめられない性質なのでしょう。

文部省や政治家などに掛け合って、初年度から数百人単位で希望者を日本に送りこむことに成功したようです。それをうれし気に話していた父が忘れられません。

このことは、北海道新聞では次の一文で紹介されました。

以下引用==>

在英国大使館の参事官の時には、1978年に始まった英国人英語指導教員招致事業の実現に従事した。この制度はのちに別の事業と一緒になってJETプログラムと呼ばれるようになったが、同制度ではこれまでに五万人近くの外国人が日本の学校などで教団に立ち、今では中学や高校で外国語指導助手にあたる外国人の姿を見ることは珍しくなくなっている。

<==以上引用終わり

父にはこのような合理的発想から、第三の解に近いところを思いつき、それを実現してしまうようなことが多々ありました。

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e-Janには、不思議と合理的な判断と大胆な動きいうのが多いと思うのです。「偲ぶ会」では、その一例として、e-Janで執務時間中にやる、英語・日本語・中国語の1対1レッスンについてお話ししました。

「社内公用語を英語にするというよりも、2050年くらいのビジネススタイルを見てみたら、ビジネスパーソンであれば日本語、中国語、英語の三か国語くらいは話せていて当然なのではないか。だから社内語学レッスンを3年前に始めました。就業時間中にやるのですが、意外とリフレッシュ効果も高くて驚いています」と。

「ダメで元々。ダメモトでいいじゃないか。前例がないならそれこそやってみよう!」精神がすでに会社の文化としていつの間にか根付いている。きっと私が当初は媒体になったのでしょうが、そういう文化は確かに会社に息づいています。このような精神や文化が生き残るということに人生の価値があるのではないか、ふとそのように思ったのです。


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以下、北海道新聞での父の紹介全文を引用させてもらいます。

以下引用==>

北海道余市町出身の道産子外交官。外務省大臣官房総務課長、駐パラグアイ大使、中南米局長、駐ベネズエラ大使などを務め、最後は駐スペイン大使として国際舞台で活躍した。

外務省在職中は持ち前の多才な発想と粘り強さで次々に攻めの外交を展開し、「アイディア外交官」として名を馳せた。中でも東南アジア一課の首席事務官時代に、同じ道産子外交官の三宅和助課長と組んで、米国と戦火を交えていた北ベトナムに三宅氏らを潜入させ、和平後の復興協力に関する極秘協議を成功させた逸話は有名だ。

在英国大使館の参事官の時には、1978年に始まった英国人英語指導教員招致事業の実現に従事した。この制度はのちに別の事業と一緒になってJETプログラムと呼ばれるようになったが、同制度ではこれまでに五万人近くの外国人が日本の学校などで教団に立ち、今では中学や高校で外国語指導助手にあたる外国人の姿を見ることは珍しくなくなっている。

経済協力局政策課長時代には、タイのカンボジア難民キャンプに緒方貞子さん(のちの国連難民高等弁務官)を派遣したほか、医療チームを送り込んだ。当時、医療チームの海外派遣は初めての試みで、日本の積極的な国際貢献の姿勢を内外に示しただけでなく、のちの国連平和維持軍(PKO)につながる流れをつくったと言われている。「人づくり」という言葉をつくったのも、同じく政策課長時代のこと。開発途上国の人材育成に日本が協力姿勢を表明した1979年の国連貿易開発会議総会で、大平正芳首相(当時)が坂本氏の草稿をもとに一般演説の中で初めて用いた。この言葉は当時、新聞ではカギカッコに入れて表記されたが、今ではすっかり一般用語になっている。

また、中南米局長時代には、1989年の米国のパナマ侵攻への対応をめぐって「こんな理不尽な行動は許されない」と主張、親米路線をとる事務次官らと真っ向から対立する一徹ぶりをみせた。駐スペイン大使の時は、スペイン語で「日本」を意味する「ハポン」姓を持つ人たちを集めて風変わりな交流会も開いた。17世紀に支倉常長ら慶長遣欧使節がスペインのアンダルシア地方に上陸し、一行のうち数人が残留、その末えいがハポン姓を名乗っているという史実に基づいて企画したもので、現地はもとより日本でも話題を集めた。

棋士の故・升田幸三が好んで使った「新手一生」がモットー。升田が定石の支配する将棋の世界に新しい構想で臨んだように、前例や慣習を重んじる官僚社会にあって、新たな挑戦に生きがいを見出してきた。「型破りな外交官僚」と呼ばれた所以である。父の故・角太郎氏は余市町議のほか、戦後、同町長を4期16年務めた。孝子夫人との間に一男二女。東京在住。

(1999年、北海道新聞東京支社外報部 浜田 稔氏の紹介文より)

<==以上引用終わり

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