「人には生まれてきた意義がある」という呪縛
おはようございます。
桜が満開です。千鳥が淵でお弁当というのもよさげです。
===ほぼ毎朝エッセー===
□□やりたいこと全てはできないことを容認する
人はわがままにできているようです。
いろいろなことをやりたい。そしてそれぞれで一角のものになりたい。だからやってみる。うまくいかない。
「ああ、自分はなんてダメなんだぁ!」
そのように嘆いてはみるけれど、不屈の精神。また気を取り直して別なことに手をつけてみる。ところが、そして時間がない。やる気がわかない。小さな言い訳であっという間に占領されてしまいます。
だからあちらこちらと手をつけてはみるけれど、結局はどれも中途半端に終わってしまう。そしてまた「ああ、自分はなんてダメなんだぁ!」と。このことをずっと繰り返しているような気がします。
ところが、この週末は何故だか次の言葉が頭の中にこびりついて離れませんでした。「人は何かをするために生まれたのではない。幸せを楽しむために生まれたのである」
人は何かをするために生まれた。生まれた意義がある。そう。普段この呪縛から逃れられないでいて、もがいているのかも知れないと思ったのです。
取りこぼしていること、できないでいること。これらのマイナス面に気を取られていると、やはり達成感の少ない日々が待っています。でも、そもそもなぜ取りこぼしているといけないのか、できないでいるといけないのか。
全てはできないわけだから、今を幸せなもとの定義して、それを肯定する。その目の前のことに集中することでいい。
冬の体に力が入った強ばった状態から、力が抜けたリラックスした状態へと変わるように、心も自然とそちらに向いていくといいのでしょう。
満開に揃いつつある桜、春の力からもらったメッセージなのでしょうか。年度末にこのような感覚の季節がやってくるというところがいつも不思議です。四季があるっていいですね。