オルタナティブ・ブログ > イメージ AndAlso ロジック >

ヴィジュアル、サウンド、テキスト、コードの間を彷徨いながら、感じたこと考えたことを綴ります。

此岸と彼岸の境界に漂う時間を描く、こころみ。 ~ 絵と詩と音楽 (n) ~

»

静かな絵を描いている。のではなく、描いた絵が、結果的に、静か。なのだろう。
描いている対象が静かであるから。

筆者が描いているのは、此岸と彼岸の境界線を消した空間、往来しながら漂うことのできる空間、境界線があったはずの空間、そこに漂う時間だ。流れていない時間、ただ留まる時間。此岸であり、彼岸。重ね合う両岸。

生と死は、生者と死者は、明確に、分けられるものではない。
生と死は断ち切れることなくつながっている。ゆるやかに推移する。
社会制度と、医療機器のセンサーの精度が、境界線を引くだけだ。
だから、その境界線の位置は、法と、センシング技術の進化によって、変わる。法は、境界線を生の方へ引き寄せようとする。センシング技術は、死の方へ後退させようとする。

遠景ーいつか眠る場所」は、実在する。筆者が20代の頃に亡くなった、父の眠る場所だ。亡くなる数カ月前、ひとりで介護を担っていた母を支援するため、退職した。その退職金で購入した、瀬戸内海を見下ろす山の上の一角だ。
いずれ、母が眠る場所となる。さらに、筆者の「いつか眠る場所」となればいい。だが、そうはならないかもしれない。その時点での社会制度の影響を受けるからだ、

小高い山である。樹木に覆われている。鳥たちの運んだ種が、芽を出したものもある。
雑草が生い茂り、その力強い緑を、草花が彩る。ヒトが栽培して手入れする庭園ではない、自生。力強く、一生を終えて、命をつなぐ。
白いふわふわとした種が、風に乗って舞い上がり、離れた定住の地を目指す。

その種を付けた花を、子どもたちが、一心に摘む。大きな花束になる。ふわふわとした種の温かい束を抱えて、空を、星を、見上げる。種を撒き散らしながら、坂を下る。彼らは、子なのか、孫なのか、あるいは近親者ではない近所の子なのか。眠る者たちとの関係はわからない。なぜ、花を摘んだのか、誰にもわからない。

そして、この子どもたちが、生者なのかどうかもわからない。生きている子が、眠る死者のために、花を摘んだのか。それとも、子どもたちは、彼岸に遊ぶものたちなのか。

北に瀬戸内海、南に石鎚山脈を、臨む場所。
視界を遮る樹木をなきものとして見据えれば、おさやかな海が、昼はエーゲブルーに煌めき、夜は深いプルシャンブルーに染まり、波の音を立てる。

鳥になって上空を飛び、その目で海辺を見下ろせば、生い茂るヤシの木が見える。白いヨットが浮かぶ。時には、フェリーやタンカーが行きかう。

そこには、食があり、文化があり、技術がある。賑やかだ。生者の領域にみえる。
だが、完全な生者の領域、ではない。生者のからだは、死を孕んでいる。ヒトだけではない、花木、鳥、虫、魚たち、あらゆる動植物たちも、同じように、死を孕んで生きている。

生は未来の死を内包し、死は生を内包している。
いつか眠る場所、いつか咲く花。その「いつか」を、われわれは「未来」と呼ぶが、便宜上、そう呼ぶにすぎない。

SNSの相互さんが、「連関している」と言う。慧眼である。
すべての絵はつながっている。あらゆる現象はつながっている。
部分は全体であり、全体は部分だ。1点は宇宙であり、宇宙は1点だ。

AIという、生者の技術の結晶を使って、それとは真逆の、境界のない世界、静かな世界を描く、こころみ。

「希望の船出、光へ」(全21回)の最後、21回目の1枚、この絵は難しかった。
ほかの絵に比較すると、何の変哲もない簡単な絵に見えるが、これまで描いた絵の中で、最も難しかった。
この「希望の船出、光へ」シリーズは、人生を帆船に重ねて表したものであるから、最終回は、つまりは死、此岸の出口であり彼岸への入り口である。
このシリーズでは、基本的に、白・青・黒しか使っていない。稀に、光の黄色やオレンジを使う程度だ。

ところが、この最後の絵には、七色を使った。虹を描くためである。舟自身が気づかぬほど、うっすらと、虹。そのアーチの真下に、3艘の舟。
生者が操舵する船と、死者が操舵する船。どの船が生者のものなのか。その判断は、見る側にゆだねられている。

此岸と彼岸の境界線のない絵。どこまでが生で、どこからが死か、不明瞭な、絵。

shiip_hikari05.png

以前から、描きたい絵がある。構図も色も見えている。最終的には、1から手作業で描く考えだ。
コンセプトありき、イメージありき。絵に限らず、韻文でも散文でも音楽でも、表現より、コンセプトを重視している。

CopilotにせよFireflyにせよ、コンセプトや完成イメージをツールに頼む考えはない。AI利用とはいえ、計算機だ。時間から逃れられない継次処理である。此岸の物理的な現象しか知らない。彼岸を理解しない。ましてや、此岸と彼岸の間、境界線の揺れ動く時間など、理解するはずもない。

ヒトだからこそ、描くのだ。生と死の、ゆるやかに揺蕩う時間を。


描けたものを順次公開しています!掲載済みのイラストは、目次から。

「絵と詩と音楽」目次

Comment(0)