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ヴィジュアル、サウンド、テキスト、コードの間を彷徨いながら、感じたこと考えたことを綴ります。

人生を共にする1冊がある人は幸福である。

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1月7日の記事「2011年の自分を表す漢字1文字:番長と遊ぼう!は『還』です」で取り上げた、ヘッセ「シッダールタ」(高橋健二訳、新潮文庫)は、私の古くからの愛読書である。

出会ったのは、大学生の時。
宗教学の課題が「なにか1冊を読んでレポートを提出」であった。私はソール・ベローについて書いた。

その授業で、たまたま発表するよう指名された学生が「シッダールタ」を読んでいた。みるからに実直そうなその学生の感想に対し、教授は、静かな声で、おごそかに、「この本は、非常に、難解ですから(今は理解できなくても、一読してレポートを書くだけでも、価値のある行為だと思いますよ)」と、返した。

ヘッセの作品は中学生の時「少年の日の思い出」と「車輪の下」を授業で半ば強制されて読んだ記憶がある。ところが、私は、青虫を飼育して蝶をリリースしたことは何度もあったものの標本を作る気にはなれず、本題から全くかけ離れた部分で厭な印象だけが残り、それ以外の作品を読んだことはなかった。
しかし、教授の言葉が、気になる。
どのように難解なのだろう?と興味がわく。
授業の引けたその足で書店へ向かい、さっそくもとめた。

30年読んで擦り切れている、ヘッセ「シッダールタ」の表紙

一読して、惹き込まれた。
一気に読み、感動のあまり、号泣した。
こういった真面目なテーマに冗談を言うことを赦してもらえるなら、読めば必ず泣けるので、以来、ドライアイ用目薬のように、パソコンデスクの袖に置いてある。

主人公シッダールタは、自身と世界について思索する人である。友人とともに家を出て、覚者ゴータマに出会う。
そしてゴータマに「あなたの心に起こったことを、あなたはことばや教えによって何ぴとにも伝えたり言ったりすることはできないでしょう」と告げる。

そのためにこそ私は遍歴を続けるのです。...いっさいの教えと師を去って、ひとりで自分の目標に到達するためです。

(新潮文庫版でいえば)前半35~40ページあたりのシーンである。この数ページに、まず、感動した。
このとき、シッダールタは、まだ若輩。おそらく、これを読んだ当時の私と同じ年ごろである。その年代の者は、そういったことを考えるのが常なのか、あるいは、似通っている部分があるのか。
いずれにせよ、当時、同じようなことを思い、哲学に背を向けて市井の人になろうとしていたところであったから、いたく共感した。今も、自分の道はこれでよかったのだと思っている。脳の成長過程には個体差があり、学びには順番と適した時期がある。知識の習得が知恵の訪れを助ける人もいれば、逆に、妨げとなる人もいる。ゆっくりのったり成長している私は、後者である。

ゴータマの元を去り町に出たシッダールタは、一人の女性との恋の術にのめり込み、女性に紹介された商社経営者の片腕となり、そののち自ら経営を始めて勝ち組となり、賭博と美食の日々をおくるが、やがて倦み、すべてを投げうって、再びひとりで歩き始める。

一方、私は、異性におぼれたこともなければ、経営者として人を率いて成功する才覚などなく、単純暗記が苦手なので賭博のルールなんぞ知りたくもないし、いわゆる高脂肪高たんぱくの美食は生来苦手であって、シッダールタの町での生活と重なる要素は、全くない。実に異なる人生を歩んでいる。

だが、そういった人生のトピックの違いは、共感を妨げるものではない。
改版前のタイトル「内面への道」の示すとおり、肝心なのは、トピックの背後に浮かび見えるもの、言葉の底に流れるものである。
他者が観測可能なシッダールタの生きざまではなく、シッダールタのみが観測可能な彼の内面の道程である。つまり、「ことばや教えによって何ぴとにも伝えたり言ったりすることはできない」ものである。
そして、私の内面の遍歴は、シッダールタのそれに重なる。
だからこそ、感動するのだ。

「番長と遊ぼう!」への回答記事に書いたように、私は、シッダールタが、川のほとりで考え、再びひとりで歩き始めたころの年齢になった。その内面はといえば、やはり重なるのである。

昔、教授が、この本を難解だと言った意味、それは、シッダールタと同じ年齢になって初めて分かることもある、ということだったのかもしれない。

もっとも、ヘッセがこれを発表したのは40代半ばである。つまり、シッダールタが再び歩き始めた後の人生については、未経験のまま書いていることになる。
そのためなのだろうか、それ以降については、筆の力が前面に立ち現われているような気がしてならない。
「シッダールタ」刊行から約1世紀、脳科学や精神医学や物理学は恐ろしく発展し、それらの情報を鑑みた思索も可能な現代にあって、これから先、私の内面の遍歴が、シッダールタのそれに重なることはないだろう。
いや、それは、まだ50歳以降の人生を歩んでいないから、そう思うだけなのか?

それにしても、この本は、30年間の伴走者であった。
150ページほどしかない、薄い本である。
だが、30年読み続けても摩耗することのない、厚みのある本であった。

こういった本だけは、電子書籍ではなく、印刷物で読みたいと思う。
一ファイルではなく、一冊として、手元に置いておきたいと思う。
本は、木の生命で出来ている。(木の側からすればとんでもないことだが)私にとって「シッダールタ」は、木の生命を奪ってあまりある価値のある本である。

人生を共にする一冊がある人は幸福である。私は幸せな人である。

  
昨年末よりブログを書き始めて2週間。長く継続するために表現の方向性を定めるべく、連日いろいろなタイプの投稿をしてきた。この辺で、そろそろ腰を据えて書いていこうと思う。
耳の具合と相談しながら、焦らずに。

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