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ヴィジュアル、サウンド、テキスト、コードの間を彷徨いながら、感じたこと考えたことを綴ります。

UXの果て、「存在のデバイス化」時代への、開発者の備え。

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ブレイン・マシン・インタフェースの時代の後に

ここのところ、UXを実現するテクノロジの進化は、いちじるしい。
現在のMicrosoft社のUXテクノロジについては、本オルタナ・サイト内、エバンジェリスト高橋氏のブログや、同社のWebサイトで、分かりやすく紹介されている。

Microsoft Surface
Microsoft Kinect
脳波センサ

これらが示すのは、入力デバイスの変化である。
キーボードとマウスから、タッチと音と動作へ。そして、思考へ。

ヒトは、存在している限り、いつも何かしら考えている。何も考えない時間を意識的に作ることは、かなり難しい。
存在していれば、それだけで、言葉もなく、動作もなくとも、一様ではない思考は、変化する信号を出力し続ける。脳波センサは、非侵襲式ブレイン・マシン・インターフェースによるアプリケーション開発を垣間見せてくれる。

それは、「ヒトの存在のデバイス化」の第一歩である。

我々は近い将来、強く考えなくとも、ふと思ったことすら出力できるようになるだろう。一般的な方法で端末を操作することの困難な人々にとって、この技術進化は待ち望まれるものである。

開発者が直面する、新しいテーマ、新しい学び

入力デバイスの進化は、開発者に、多くの新しいテーマをもたらす。

たとえば、それが物品販売用のアプリケーションならば、ユーザーの思考のパターンに応じて、商品データを抽出表示する処理は、当たりまえとなる。
ユーザーの心身の状態、疲労の度合いや喜怒哀楽の感情とその強さなどを判別し、画面遷移やコントロールのレイアウトを変えたり、アプリケーションの画面の彩度や明度を変える処理も必要になる。ユーザーが落ち着いているときは寄り道を増やし、焦っているときには手順を省いて、購買行動に結びつける。

また、ボーカロイド技術を活用し、バーチャルアイドルが好みの声で、的確な助言をするような処理の実装も必須となる。その時々によって浪費傾向にあるユーザーにはクレジットカードの使いすぎを警告し、優柔不断なユーザーには買い物に付き合って、決断を促すのである。

脳機能の傾向を判断し、互いがWin-Winの関係になれるような相手を紹介する、就職や結婚のマッチングサイトも、乱立するだろう。

さらには、人間と寸分変わらぬ3Dのバーチャルなスタッフが、被虐待児の育てなおしや、災害や事故からのPTSDの回復推進に、一役買うようになり、そうなると、開発者はプログラミング技術にとどまらず、心理学や脳科学や倫理学まで、立ち入らねばならない。

開発者は、「計算機」以上に、「人間」というものを、熟知しなければならなくなる。

我々は、その範囲の広さには個人差があれ、どうしても自分基準で物事を見てしまい、ヒトの多様性を小さく見積もりすぎるきらいがある。だが、ヒトは、想像するよりも、はるかに多様である。知識の習得以上に、人としての体験を重ねることに呻吟する、大変な時代になりそうである。

開発者をのみ込む、倫理の議論の渦

ヒトそのものをデバイスとする技術が与える影響は、それが脳の活動に関わるものであるだけに、生活や業務や娯楽に止まらない。技術を扱うための前提条件について、あげればキリのない問題が噴出する。それは、全世界共通の社会的インパクトを持つ。

たとえば、3DCGで再現された実体なき人々に対して、どこまで生身の人間と同じ価値と権限を与えるのか。

脳機能に明らかな変化がもたらされた場合、変化する前のヒトと変化後のヒトを、どこまで同じ存在、一意のIDを駆使する権限を持つ者として扱うのか。そもそも、ヒトのアイデンティティとは何か?朽ちていくことが許されなくなりつつある社会における、一意性とは何か

それらを議論する以前に、社会的なヒトの存在は、いかに定義されるべきか?
そもそも、存在の認識とは何であるのか?
社会的存在と、物理的存在と、各個体の認識する存在の違いは?
認識方法に個体差はあるのか、あるとすればその差異をどのような方法で検出し、その結果を、どのように判断するのか?

ヒトの属性データを木構造の中に押し込めて扱うならば、「存在とは、各個体の意識の座のある座標値を中心点とする広がりのある場に属する情報のセット」として、広がりの範囲(リーフノードに至る構造)を定義すれば青写真を描きやすい気もするが、それは呑気な一データ・デザイン屋の私見に過ぎない。木の形に成型されるべくヒトが生まれてくるわけではないのである。そもそも意識の座が、全人類共通で単一のものであるとは限らず、いや、限らない世界になっていく可能性だってあるのだ。

さまざまな分野、さまざまな業種で、ニューロエシックスの議論が沸き起こり、決定を受けて実装を行う開発者もまた、その議論から逃れることはできない。

その混乱の果てに、我々は、技術進化がなかったならば獲得できなかった、新しい概念、新しい気付きに、たどりつくであろうが、そこにいたる道のりは、決して平たんではない。

存在のデバイス化は、開発者に何をもとめ、何をもたらし、あるいは開発者から何を奪うのか。
今この時点から考え始めても、遅いぐらいだ。問題が噴出し始めてからでは、もう間に合わない。

今月から、「デジクリ」こと、クリエイターのためのメールマガジン「日刊デジタルクリエイターズ」で、月1回、連載を始めることになりました。
連載タイトルは「データ・デザインの地平」です。
本記事は、第1回目(本日12月20日配信)のデジクリ用の記事を、昨日のブログ内容とリンクさせて、リライトしたものです。
本ブログ、デジクリとも、購読していただければ、筆者はピーナッツを頬張ったハムスターのように、大きな目をさらに見開いて、喜びます。

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