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品質保証の欺瞞、あるいは形式主義が組織にもたらすもの

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Twitterで「品質保証の歴史学」と題するスライドが回ってきて、同意しかなかった。
https://speakerdeck.com/nihonbuson/history-of-quality-assurance

特にこの一節。

プロセスを決めて守れば品質は「保証」できる、という欧米型品質保証的なクソのような幻想

このスライドで言う欧米型品質保証とは、ISOやCMMに代表される
・プロセスを紙に書き出す
・それを守らせる
・それを守っていることを証明するための紙も作る
・毎回、紙にハンコをつかせる
・それを監視する認定員みたいな人がいる
・そういう人にお金払う
みたいなやり方を指している。とにかく書類が大好きですよね。書類フェチ。


僕自身は、ISOやCMMみたいなものには一貫して距離を置いてきた。
自分の会社で取得の旗振りをしたこともないし、顧客に勧めたこともない。

僕がこれらを一瞥した後で無視してきたのは、これらが異様なまでの形式主義に根ざしていたからだ。「品質を担保するために、プロセスのここで、こういうフォーマットの紙を書きなさい」って、そんな方法で担保できる訳がないでしょう。
引用先のスライドに書いてあるように、まさに「クソのような幻想」だ。
一方で、これらが組織に害悪となっている様子をたくさん見てきた。

例えばCMM。
これはソフトウェア開発組織の能力成熟度モデルなどと呼ばれている。
例えば、開発プロセスの文書化、標準化ができていれば、レベル3「定義された」と認定される、みたいな感じだ。
それまで職人や超人っぽいエンジニアの属人的な能力に支えられてきたソフトウェア開発のレベルを、きちんと認定しよう、認定を通じて底上げしよう、という考え方は良いものなんだと思う。
そんなこともあり、15年くらい前に日本のSIer(システムインテグレーター)の間でCMMを取得することがかなり流行った。

だがソフトウェア開発という複雑で専門的な領域で、外部の認定員が組織の成熟度を判定するなんて、そもそも現実的なのだろうか?実際に彼らが判定しているのは、成熟度ではなく、「定められた通りのプロセスを遵守しているか?」であり、もっと言えば「書類を書いてハンコついてるか?」だったりするのだ。
つまり「定められたプロセスに沿っている、または沿っているフリをすれば、ソフトウェア開発の品質は上がる」という仮説に寄りかかった話でしかない。この仮説が否定されれば、単なる砂上の楼閣だ。

ずいぶん昔の話になるが、あるSIerさんとプロジェクトを一緒にやっていた。僕の仕事は、これまでのプロジェクトコンセプトに沿って、業務担当者が必要とするシステムをそのSIerに作ってもらうこと。
だがその仕事っぷりを改善するのに手を焼いていた。仕事の基本ができていないし、結果としてソフトウェアの品質も低かった。

でもある時「ウチの会社、CMMのレベル3になったんですよ」と言われてびっくりした。レベル3って「プロセスの文書化、標準化ができていて、成熟度が結構高いね」という証だからだ。「え?この人達、そんなに組織だった仕事していましたっけ?」

そしてその1年後「ようやくレベル5になりました!」と、CMMのロゴが印刷された名刺をいただいた時、僕がCMMに抱いていたかすかな信頼も崩壊した。僕と一緒に働いていた方々は相変わらずの作業品質のままだったのだから。
「プロセスや書類で品質を担保する」という理屈はクソだが、実態も同じくらいクソだった。

こういった書類主義や形式主義の害は、面倒くさいだけじゃない。一番の問題は、「形式だけを守っていたら、いいんでしょ」というマインドが組織に蔓延してしまうことだ。
・○○認定のために、この書類必要なんですよ。意味ないですよね、あはは・・
・とりあえず、中身見なくていいんで、ハンコ押しといてください
・顧客とは無関係だけど、この書類作らないとウチの会社的にマズイんで・・
みたいな感じのコメントを何度聞いたことか。そんなクソ書類作ってる暇があるなら、システムテストのテストパターン考えろよ。
この手の形式主義を組織に強制すると、むしろ品質は下がる。逆効果なのだ。

別にCMMだけの問題じゃない。
僕がお付き合いした会社で、ISO9001が有効に機能していた会社はない(断言)。少なくともホワイトカラーの職場では。
・ISO用に業務フローを作るので疲れ切って、業務改革の気力が沸かない会社
・ISO用に作らせた業務フローがファイルされているだけの会社
・効率化のために業務フローを変える際、ISO用書類の更新がネックになる会社
・この紙が「品質」となんの関係があるのか、誰も説明できない
などなど。


本来、品質を高めるって、とても難しいことのはずだ。
・ハイレベルな技術者を育成する。
・高い品質が利益に直結するようなビジネスモデルを採用する。
・品質を高めることがかっこいい、というカルチャーを作る。
・(形式主義ではなく)ちゃんと品質チェックができるプロセスを構築する。
など、どれも極めて難しい経営課題だ。
(これら1つ1つが奥が深く、ブログ1本にも本1冊にもなる・・)
良いリーダーに率いられていれば、小さなチームでこれらを達成することはできる。
だが全社で取り組むには、かなりのリーダーシップが求められる。

それに比べて、CMMだとかISOを取るのって、易しいんですよ。ハイレベルな技術者の育成とかカルチャーづくりみたいに、何から手を付ければいいか分からない、みたいなカオスではない。
とてつもなく面倒だし不毛だけれども、作れと言われたドキュメントを作って、押せと言われたハンコを押せば、ベルトコンベアに乗っているように取得できる。経営者が「お前ら取れ」と号令かければいい。あー楽だ。あのSIerさんだって取れる。サービスレベルを本質的に上げなかったとしても取れる。

これで本当に品質が永続的に上がるなら、こんなに良いことはない。ものすごい費用対効果だ。
あくまで「上がるなら」だけどね。

僕があの手の形式主義的な品質管理プロセスが大嫌いなのはご理解いただけたと思う。
だがどんなものかを知って距離を置くことを決めた時から今まで、声高にはそれを主張しなかった。
なぜなら、「属人的な品質管理のあり方を脱して、組織として、プロセスのちからで品質を担保しよう」というのは字面だけだと、いかにも正しそうだからだ。
面と向かって反対しにくい正論なのだ。特にCMMやISOがめちゃくちゃ流行っていた時期には、口に出すのがはばかられた(僕ですら)。商売のタネにしていた人がたくさんいたし、本当に有効だと思って真面目に取り組んでいた人もたくさんいたので。
実際には「もし、プロセスで品質が担保できるならね」という巨大な仮説に寄りかかっているだけなのに。

この「面と向かって反対しにくい」は、ゾンビのようになったISOやらCMMが形だけ生き延びるの力になっている。誰もが「意味ないんじゃないの?」と思っていたとしても、あからさまに反対するのは、サラリーマン的にはなんとなく危険な気がする。

もう認定されてしまったのだから、続けるには毎年謎の書類にハンコ押せばいいだけなんだし、寝た子を起こすのはやめよう・・。


最後に。
こういう記事を書くと「本来の○○はそういうものではない」みたいなご指摘を受ける事が多い。そうなのかもしれませんね。だとしたら是非、あなたの思う「本来の」になるように頑張ってください。僕が観察した範囲では到底そうなっていないので。僕は別の方法で高い品質を目指しますが。

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