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グローバル化する中で日本人はどのようにサバイバルすればよいのか。子ども×ICT教育×発達心理をキーワードに考えます。

マッカーサー元帥を感服させた日本人 一万田尚登(元日本銀行総裁)

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経済のグローバル化や世界のあちこちで起るテロ、東日本大震災による被害など、日本は激動の時期を迎えています。困難な時代を乗り切るには、歴史に学ぶのが一番です。先人たちが"どのようにして"困難な状況を乗り切ったのか知ることで、現在の政治や経済、社会情勢の問題を解決する方法が見えてくるのではないでしょうか。

日本経済が低迷していた時代に景気を立て直した人物を調べた結果、村岡恵理『アンのゆりかご―村岡花子の生涯』(連続テレビ小説『花子とアン』の原案)の381ページに、村岡花子さんと一万田尚登さん(当時の日本銀行総裁)が談笑する写真を発見しました。
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アンのゆりかご―村岡花子の生涯』には、

昭和30年(1955)、マッカーサーと対等に渡り合い戦後の日本経済の復興に尽くした一万田尚登(右)と会談。A
※前掲書 381ページ 写真のキャプションを引用

と記載されています。

村岡花子さんが敬愛し、マッカーサー元帥と対等に渡り合った一万田尚登 氏とはいったいどのような人物だったのかをご紹介したいと思います。

【筆者注】村岡花子さんは『赤毛のアン』など家庭小説を翻訳する傍らで、女性や子どもたちが幸せに過ごせる社会をめざしていたとのこと。政治や経済にも関心を持っていたそうです。そのため日銀総裁だった一万田尚登さんや外務大臣を勤めた藤山愛一郎さんらと会談し、社会改善のために力をつくしたそうです。

一万田尚登とは何者か

「非常時の男」一万田尚登の決断力―孫がつづる元日銀総裁の素顔
「非常時の男」一万田尚登の決断力―孫がつづる元日銀総裁の素顔から引用
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『アンのゆりかご』の注釈に、一万田尚登さんについて略歴が解説されています。

一万田尚登 いちまだ ひさと  (1893~1984)昭和期の日本の政治家、実業家。第18代日本銀行総裁、鳩山一郎内閣と岸信介内閣の大蔵大臣を歴任。日本銀行総裁在任期間の3115日は歴代1位。GHQと対等に渡り合える唯一の経済人と言われた。鋭い眼光と彫りの深い容貌もあいまって「法王」の異名を持ち、戦後の金融界、経済界に多大な影響力を持った。
※前掲書 412ページから引用

太平洋戦争後、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)に占領させた日本の経済を復興させた立役者の一人が一万田尚登さんです。一万田さんは、昭和21年6月に日本銀行総裁に就任。戦後、経済が混乱した中、インフレの克服とデフレの克服に尽力しました。

GHQの言い分が理不尽だと思った際は率直に物を申して、マッカーサー元帥やドッジラインで著名なドッジ氏を感服させたことでも知られています。

日本銀行総裁を辞した後は、鳩山一郎内閣の大蔵大臣として政治家に転身。大蔵大臣を退いたのちは、対外経済協力の仕事や国際基督教大学の設立にも尽力。晩年は足の神経痛や難聴に悩まされ、政界を引退。90歳で鬼籍に入られました。

一万田尚登さんについての本は数冊ありますが、若い世代の方は一万田総裁をご存じないかもしれません。

このたび一万田健城さん(総裁の孫)からご快諾をいただけましたので、『一万田尚登 伝記・追悼録』にもとづいて、

  • 一万田尚登さんが日銀総裁時代に、"どのようにして"GHQと交渉したのか、
  • "どのようにして"戦後の日本経済を復活させたのか、

を紹介したいと思います。

【筆者注】一万田と書いて、"いちまだ"と読みます。"いちまんだ"ではありません。実際は一萬田が正式な表記だそうです。一般の人がわかりやすいように、一万田尚登(いちまだ ひさと)という表記を使っていたそうです。

よみがえる力 ~失敗が総裁就任につながった~

日本銀行に入行後、一万田さんは郷土(大分県)の先輩・井上準之助総裁(のちの大蔵大臣)の秘書を経験。のちに京都支店長になります。しかし、日銀総裁の接待での手違いがあった後、一万田さんは左遷されたと感じた時期があったそうです。

副総裁の話では、この人事は結城総裁がじきじきに決めたものだということだった。京都での接待で手違いを起こしたことを、総裁が怒ったのだ。

一度は日銀をやめようと思った。だが、東大卒業前の講義で、牧野英一先生が「転んでもただでは起きるな」ということを強調していたことを思い出した。

ここで短気を起こして日銀をやめるのはやさしい。しかし、それでは転んだままスゴスゴと立ち去ることになる、ここは生まれ変わった気持でつぎの道を切り開き、業績をあげることだ、と考え直した私は、心機一転、検査役の辞令を受けることにした。

※前掲書 50ページから引用

気持ちを立て直し地道に仕事を続けた結果、一万田さんは昭和21年に行われた公職追放(連合軍総司令部による)にまきこまれずにすみました。

【筆者注】『一万田尚登[伝記・追悼録]』によると、公職追放の該当になるのは

  • 日本の膨張政策に関係した役員
  • 占領地にあった支社、支店の支社長

だったそうです。一万田さんは大阪支社長だったため、公職追放を免れました。

総裁就任時に「日本経済を健全化するため、誠心誠意努力した新木さん以下多くの役員を、追放令で失うことはこの上なく遺憾だ。しかし、事態がこうなった以上、日本の復興とインフレ阻止のため闘う決意だから、引き続き指導していただきたい」と挨拶したそうです。

一万田総裁は

  • 戦後のインフレを防ぐ
  • 生産を増強する

という難題を両立させると決心し、日本の復興をめざしたのです。

マッカーサー元帥にもの申した男

Douglas_MacArthur_smoking_his_corncob_pipe.jpg
出典:Wikimedia Commons
(パブリックドメインの
File:Douglas MacArthur smoking his corncob pipe.jpgを使用)

敗戦国になった日本を支配したのは、連合国軍総司令官のマッカーサー元帥です。一万田総裁は、総裁に就任するとマッカーサー元帥に会見を申し入れたそうです。

その理由は、

  • 日本の経済復興には、アメリカの援助が何よりも必要だと思っていたから
  • マッカーサー元帥にお逢いして、日本の実情を知って欲しかったから

だそうです。

ご本人によると、昭和22年頃、マッカーサー元帥と初めて対面し、

「お気に障ることを言うかもしれませんが、私は専門の分野でよく知っている事実を事実として率直に述べ、正しいと信ずる意見を申しあげるつもりです」と断ったことを記憶している。
※前掲書 155ページから引用

とのちに回想しています。

一万田総裁がマッカーサー元帥に「言いたいことは遠慮せず、どんどん言う」方針をとったのは、「結論としては実行してもらえないまでも、聞き流すくらいはできるであろう(前掲書 155ページ)」と考えたからです。

僕はそんな気持でぶつかったのだが、アメリカ人にはかえってそれがよかったのではないか。そういう態度がGHQには受け入れられたと思う。マッカーサー元帥とは、遠慮なくやり合ってむしろ親しくなった。僕の最初のアメリカ行きも、マッカーサー元帥のお声がかりだなどという人もあったくらいだ。
※前掲書 155ページから引用

おそらく一万田総裁はマッカーサー元帥のことを、「占領地のリーダーに選ばれる人なのだから、人としての器は大きいのではないか。そのような人ならば、意見を言ってもいきなり怒り出したり、聞く耳を持たなかったりすることはないだろう」と考えたのではないでしょうか。

役人は何事につけても総司令部の意向を伺わないといけない。財界解体にあった財界人は勢いを失っている。そのような状況でマッカーサー元帥に本当のことを言えるのは私しかない、と思ったことを自伝で述べています。

一万田総裁の

  • 日本で起きている事実を率直に伝え、
  • 信念があることは、ぶれずに言い続ける

という一貫した態度がマッカーサー元帥に好印象を与えたようです。

一万田総裁が、マッカーサー元帥やGHQに伝えた意見

政府はGHQにとって交渉相手であることから、中立機関である日本銀行の総裁に経済政策の相談が多かったそうです。一万田総裁がマッカーサー元帥に伝えた意見の一部が、自伝に紹介されています。

「金持でないと国会議員になれないような日本の現状では、正しい政治が行われない。これは大変なことだから、誰でも国会議員になれるように尽力してください(前掲書 63ページ)」。

教育について意見を求められ、一万田総裁は以下の見解を伝えたそうです。

戦前は忠君愛国・富国強兵をバックボーンにしていた日本が突如として民主主義の国に変わったが、その育成は容易ではない。それには、幼稚園、小学校、中学校の教育を重視しなければならないと思う。また、この時期は、人間形成の面で先生の影響力が大きい、先生方はこの自覚の上にたってもらわねばならぬ。同時に国も、先生方の給与、住宅、研究施設等について何の心配もなく安心して教育に専念できるようにせねばならぬ。GHQも制度ばかりではなく、このような点についてももっと推進して欲しい。
※前掲書 158ページから引用

一万田総裁は常々、言っていた言葉があります。

中央銀行は鎮守の森であるべきだ。周囲に千年の杉が茂り、昼なお暗い中に森閑として鎮座ましましているのが良い
※前掲書 63ページから引用

その意図は、「中央銀行が忙しかったり、総裁の言動がいちいち取り上げられるのは、国の経済が悪い時、なにもしていないように見えるのが一番良い時だ、という信念からだ(前掲書 63ページ)」と述べています。

現在の日本経済、マスコミの報道を鑑みると、一万田総裁の言葉が大変重たく感じました。

おわりに

本記事では一万田総裁が"日本銀行"在籍中に行ったことの概要を紹介しました。一万田尚登さんの自伝や関係者による追悼録を読むと、「自分が泥をかぶってでも、日本国や国民のためになることをしたい」という信念が伝わってきます。

日銀総裁時代は、「法王」と呼ばれるほど実力を発揮した方でした。しかし、大分訛りを陰でからかわれたり、難聴に悩まされたりしたそうです。また、政治家に転身してから、清廉潔白では通用しない壁にぶちあたって悩んだり、晩年は神経痛に悩まされたり苦労が絶えなかった人生だったようにお見受けしました。

ドッジ氏との攻防や、戦後の経済復興については、改めて紹介したいと思います。

謝辞

一万田健城さんから『一万田尚登 [伝記・追悼録]』(徳間書店)を献本していただき、この記事をまとめることができました。大変ありがとうございました。

本書は一万田総裁の三回忌の際、参加者への配布用として、日本銀行とご親族が私家版として制作したものだそうです。歴史の資料としても貴重なものですので、一万田さんのご了解をいただいた上で紹介させていただきました。

引用文献

『一万田尚登 伝記・追悼録』
一万田尚登 伝記・追悼録刊行会 徳間書店 1986-01-22
※私家版なので、本屋やAmazon等で購入することはできません。

村岡 恵理『アンのゆりかご―村岡花子の生涯 (新潮文庫)

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