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この島々には、むかしふたつの国があった。

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「日高見」というお酒を知っているだろうか。宮城県石巻にある、平孝酒造が造るお酒で、透明感のある、爽やかなお酒だそうだ。石巻は、良港に恵まれ、漁獲高も高い。目の前に金華山沖があり、暖流と寒流が混ざり合う、理想的な漁場だ。宮城県だけあって、お米もとても美味しい。もちろん野菜も新鮮だ。お酒があり、うまい魚があり、米がうまく、自然がふくよかに残っている。生涯の品質を考えると、どこに住むのが幸せなのか、いつも迷ってしまう。 

ヤマト朝廷ができる、遙か前から、東北地方は関東地方と合わせて、すばらしい縄文文化が花開いていた。縄文人は、栗だの、粟・稗だの、貧しいものしか食べていなかったというのは、もはや無知蒙昧の迷い事だ。海ならば、魚・貝・海草、山には入れば、動物では鹿、イノシシ、たまには熊。うーむ、狸は処理がむずかしいんだな。そして、豊富な食用植物、そこら中にいる鳥。さらには、本格的に大々的ではないが、稲作も進んでいた。

この当時はむろん仏教の影響もなく、美味しいものを美味しくいただく、壺や土器、石器も交流しており、中には装飾品として翡翠をも流通させていた。山の中を通る道を作るのはたいへんだが、浜伝いに進めば遠くまで船で移動することが可能だった。つまり、ヤマト朝廷が東北に攻めてくるまで、寒暖による不作などがあっても、充分に充実した、文化的生活を送っている人びとがいた。山内丸山はその一例にすぎない。

ヤマト朝廷は、この人たち(民族)を蝦夷(エミシ)とよんだ。ヤマトは北九州から東に進んで、畿内に朝廷を建て、出雲族を従え、朝鮮や中国とも交流しながら、東に徐々にその範囲を進めていった。「唐書」には、この島々には、倭国と日本国があり、日本国は倭国の属国の形態となっていると書かれている。

つまり、もともとこの島々には、ふたつの国があったのだ。

そして、国造りと称して、東へ東へ、ヤマト朝廷の権益範囲を広げていった。むかし、関東地方の一部から東北全体を「日高見」「日の本」と呼んだ。そこに住む蝦夷(エミシ)。エミシを「征伐」する仕事の長を「征夷大将軍」と呼んだ。宮城県多賀城市(私がたまに帰る、第二のふるさとです)は、6世紀の対エミシの最前線であり、最北の国府であった。国府の側には、塩竃神社があり、また、国府津(国営の港)があった。現在は香津と呼ばれている。

一番有名な当時の征夷大将軍は、坂上田村麻呂だろう。坂上田村麻呂は、蝦夷(エミシ)の首領、「アルテイ」を捕まえて、朝廷に送り届け、味方にしようとしたが、朝廷側は恐れて殺してしまった。 

このあと、関東や東北の人たちは、農業に従事するようになり、ヤマト朝廷の、天皇の所有するものとなった。その後この地域は、「みちのく」と呼ばれたり、東北と言われてきた。しかし、15世紀には、北海道渡島半島から東北北部に大きな勢力を持つ「日本大将軍(ひのもとだいしょうぐん)」が出たり、豊臣秀吉も東北地方を「ひのもと」と呼んでいた。

一時期、藤原氏の傍流とつながりを持ち、平泉に荘厳でとてつもなくきらびやかな、浄土世界が出現した。東北の藤原氏4代である。東北は、自然の恵みだけでなく、金などの鉱物の宝庫でもあった。そして、武士の台頭も、関東・東北地方であった。ちなみに、平泉を流れる大河、「北上川」は、日高見(ひたかみ)から派生した言葉で、元来同じものだ。

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さて、わたしがなにを言いたいのか、というと、いままでの日本史でさえ、ヤマト朝廷中心。西日本の歴史研究家の成果が文献中心主義で作ってきた。しかし、考古学や歴史の新しいとらえ方によって、真実は徐々にすがたを表しているのである。

特に東北では、西日本(東京を含む)に対するコンプレックスが高い。もっと東北人は、自発的に、かつ、堂々と自分たちの歴史と先祖に誇りを持ち、東京や西日本に頼らなくとも、独特の美しい文化を保ちながら、経済的な自立をしていくべきだと思う。

支倉常長の例を持ち出さずとも、東北人だからできるのだ、と思っていきたい。

私は生まれは長野県長野市で、3世紀ごろまでは蝦夷(エミシ)の最前線だった。すぐにヤマトに征服されてしまったが、いま、こころは東北人になろうとしている。方言がうまく話せないんだけどね。

以上は、網野善彦氏、宮本常一氏、赤坂憲雄氏等の文献から抜粋した情報をまとめたもので、私の個人的な想像ではありません。

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