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年収格差の増大と平等感 - 年始にテレビを見ていて

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いまの日本は、平等感の強い、平等であることが一番大事と思う国である、と感じる事がある。年始でごろ寝を楽しんでテレビを見ていたところ、こんな番組をやっていた。原油高騰をきっかけに、あらゆる物価が上昇する可能性があるが、日本の場合、値上げは消費者がたいへん嫌がるので、価格はあまり上げず、その分を自社の社員の給与を抑える事に経営者はいくだろう。そうすると、低賃金で仕事をしている人たちの年収が圧迫される。

むろん、物価もそれなりに上昇するし、この全体の流れでも年収が上がる人たちも出てくるので、ますます、年収格差は増大していく、という推論だ。説得力のある予想であり、年収格差に留まらず、地域格差も増だろう、という。私が以前書いたように、東京への一極集中化の経済的利点がますます働くのだろう。

暇つぶしに、宮城県のJUSCO多賀城店で買った本、2冊を読んでいたら、偶然に「平等」というテーマが両方の本に出ていた。ひとつはもう15年以上も前に出版された塩野七生氏の「再び男たちへ(文春文庫、2004年第12刷)」と「『禅語』100選(知的生きかた文庫、西村惠信氏監修)」だ。

塩野氏のエッセーでは、フランス革命200年記念によせて「自由・平等・博愛」についてそれぞれ彼女の考えを述べている。要約すると、平等と言っているものを突き詰めると、たとえば、A氏が小さなパンを得て、B氏が大きなパンを持ったとすると、この2個のパンをそれぞれ正確に二等分し、小さいパンの半分と大きなパンの半分を再び分け与えることでしかない、というのだ。

崇高な理想やら哲学などを取っ払って、自然な人間の感情を素直に見つめれれば、B氏は自分のパンを人になど、ひとかけらも上げたくはないだろう。しかし、人類がある面、聡明であったのは、近代になって、このパンを少しA氏に分け与える事を社会の仕組みの中に取り込んで来たことだ。

現代社会は、「相互保証」を法律に盛り込んで、より安定した生活ができるようになっている。もう一度崇高な理想と哲学を捨ててもらうと、たとえば、人を殺傷することは厳罰になる。これは自分が人から勝手に殺傷されない為の「相互保証」だ。同様に、B氏がA氏にパンを分け与えるのは、自分が小さなパンしか得られなかった時に、ほかの人からパンを分けてもらえるからだ。

ではどれだけ分け与えるのがいいのか。福祉国家だとへたをすると50%以上も取られたりするのだろうか?しかし、医療費や学費は無料だ、とか。この場合、A氏は小さなパンを持っていても、十分生活ができるわけで、まったく次元の異なる問題を派生させるだろう。人生の目的や夢ややる気がなくても、自分で取捨選択が出来る自由と責任もなくなっても、とりあえず生きていける。それは、幸福なことなのだろうか。

塩野氏は、やはり自由競争の大切さを当然としながらも、自由競争による心の不安定さも示唆する。それを払拭するのが、敗者復活戦だという。限定責任であり、これは現代社会の、根本の考え方のひとつだ。

すべての前提として、人は生まれながらに平等ではない、ということを再認識すべきだろう。「禅語」100選のひとつがこれだ。

春色無高下
花枝自短長

春のひかりはすべての物に降り注いで、景色に上下はないが、
花の咲く枝には長い物も、短い物もある

長い枝は春の日を存分にあびて美しい花を咲かせられるが、短い枝ではなにかの影になってしまうかもしれない。しかし、それは自然のあるがままの姿なのだ、ということだ。

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