特攻隊員になれなかった男の話
私の父である。おやじは戦争の末期に、海軍に入った。海軍飛行予科訓練生(予科練)である。ただし、おやじはまだ高等小学校を卒業したばかり、なおかつ、敗色の濃くなった日本軍では、飛行兵の教育すら、ままならなかった。
ウィキペディアの記述にあるように、
また終戦間際の練習生は教育も滞り、基地や防空壕の建設などに従事する事により、彼等は自らを「どかれん」と呼び自嘲気味にすごした。
ということで、おやじは九州の宮崎だか、鹿児島の人吉の分隊に配置されたようだ。飛行機を飛ばすまでの技術など教えてもらえなかったのだろう、乗員3人乗りの艦爆か艦攻、または陸上攻撃機の機械士としての配属だったようだ。おやじは「銀河」だと言っていたが、銀河であれば機械士でなく、後方機銃の担当だったのだろう。
配属された分隊に飛行機はなく、しかたがないので地面を掘って、機銃を置き、警戒に当たっていたらしい。その基地は戦略的な意味合いなどなく、無視するかのように、頭の上を敵機が飛んでいったと言っていた。
朝飯か昼飯は、近所の農家に行って食べさせてもらっていた、と懐かしがっていた。ばあさんが話ている言葉が、さっぱり分からなかったそうだ。さすがに本土の基地なので、食料が無くて困るという状況ではなかったようだ。キャラメルなどの配給もあり、まだ若いおやじはうれしかったらしい。
その時、おやじは16歳であった。なぜ撮ったのか、大判の写真を今も持っている。見せてもらった事もあるが、まるで子供だ。顔がつるんとして、ぼろぼろの軍服と軍帽。これほど不似合いな写真はない。なぜ、こんな写真を撮ったのか。記念になのか、死の準備だったのか。
苦しかったこと、悲しかったことなど、私たちには何も話してくれない。話しても分かってもらえないからなのか。実際に体験したものでしか分からないからなのか。話したくないほどなのか。
おやじが16歳に感じたことは、そのまま誰にも伝えずにいるのだろう。ただ、16歳のおやじの写真は雄弁に語っているのかも知れない。