米国航空業界をIT技術で制覇しようとした男(達)その2
先週は会社を設立してNASAとの交渉を開始して正式に動き始めたところまで書いた。登場人物は60過ぎの怪人AとハーバードのビジネススクールのMBAを持つEとそして筆者だ。最初3人は分担を決めてうまくやっていた。NASAとの交渉、弁護士事務所との連携、ビジネスプランの作成、NASA内のオフィースの設定(家具、ネットワーク等)、TEN(元々いたインキューベーション)との話し合い、NASAの研究者との話合いなどだ。
当初Eは非常に有能で感じの良い人間のように見えた。しかし、何か過去に問題があったのか行動が悪意に満ちたように見え始めた。具体的には、Aの発言や着ているものに対して筆者にコメントをするようになり、特にAのCEOとしての能力に疑問を持つ発言が増加した。一応工学博士を持つ筆者は一応評価していたが、学位を持たないAに関しては何か偏見があったようだ。もちろん、Aも完全であったわけではない。年齢(60過ぎ)、タバコ、着ているものが古く綻びている、発言やジョークがあまり知的ではない等々だった。それは筆者にはそれ程問題とは思えなかった。
筆者は叩きあげの人が好きである。学位があっても実経験のない人間が偉そうに発言するのが嫌いである。今でも本当に学位がなくても叩き上げで、成果を上げている人を尊敬する。確かに、Aは学位はなかったが実経験があったようで、発言の端々からそれが見られた。シリコンバレーの1つの問題点は「若くないなら、参加するな」ということだ。人間は必ず年を取る。若さによるエネルギーと最新の知識と老練な経験とのぶつかり合いだ。有名なスタートアップなどは、多分35歳以上の人間は雇用しないだろう。
米国の労働法律は結構いろいろな項目で雇用差別を禁止している。その1つが年齢による差別だ。そのため、履歴書には年齢が分かるような記述を一切書かないないのが鉄則だ。年齢をはっきりと書く日本の履歴書事情とは大きくことなる。これは、書類選考ではねられないためだ。どうにか年齢を読まれなくて、面接までたどり着いたとしても、見かけから分かる年齢は騙しようはない。もちろん、年齢を理由に採用しないとは言えない。しかし、採用しない理由は幾らでもつけることができる。それゆえに、採用されない時文句をつけることは困難だ。
さて、話を元に戻すと、NASAからライセンスを受けるためにはビジネスプランを提出する必要があった。このライセンスは独占ライセンスでなく、複数の会社がライセンスを受けることができるものであった。当然我々の目的は独占ライセンスを取得することだったが、当初NASAの腹積もりはたくさんの会社からのリクエストを受けて、その中から独占ライセンスの話しをする予定のようだった。これには、技術的な部分は筆者が担当してEがまとめ上げた。さすがにEはこの手のことをさせたら、ピカ一だった。
このライセンスには数社が応募したようだが、実際にビジネスプランを提出したのは我々だけだったようだ。でもまずは非独占ライセンスを獲得した。それと平行して、銀行などとも初期の金の話も始めた。これで、Eの行動が明らかに行き過ぎるようになった。3人で銀行の融資や投資部門の人とあった時のことだった。CEOとしてAがビジネスや収入や収益などを説明し始めた。Eは明らかに苛立ってきた。所々口を挟もうとするが、うまく行かない。Eのやり方は明らかに不快な感じで、4人の間になんとも嫌な雰囲気が漂い始めた。そのとき、Aの携帯がなった。それで、Aは中座した。その瞬間、Aの帰りを待つのではなくEが説明を始めた。少しはましかも知れないが、それ程目だって良い説明でもなかった。銀行側はCEOを差し置いて、しかも彼が中座しているときに話を続けたので、銀行の人もどうして良いか分からないという態度だった。中座していたAが帰ってきて状況を把握したが事を荒立てずにその場は収まった。
しかし、これでAとEとの関係は明らかに悪くなった。この時点では筆者はEの子供じみた言動を見て、Aを支持することになった。そして、迎えたのが9.11だ。この事件のためにおきたことは、我々の会社にも大きなインパクトがあった。この事件は経済に多大な影響を与えた。特に航空産業は致命的な打撃を受けた。飛行機に乗る人が激減してドットコム崩壊などとも関連して経済がボロボロになった。当然投資の金も干上がった。もっとも、このビジネスは航空産業に関するもので、伝統的にICT技術に主に投資するシリコンバレーのVC(ベンチャーキャピタリスト)は興味を示さなかったが。
余談・脱線モード・オン(9.11の後の米国の様子は色々と伝えられているかも知れないが、あの時のアメリカは異常だった。許せないと上げた拳を振り下ろしたい気持ちで一杯だった。アフガニスタンのタリバンがアルカイダと協力してこれを引き起こしたという雰囲気が高まり、アフガンへの攻撃は殆ど100%の支持を得た。簡単にアフガニスタンが制圧されてしまい。まだ、気持ちが治まらない世論は次の攻撃場所を探した。それがたまたまイラクだった。今となって最初からあの戦争が間違っていたという人をあまり信用できない。)余談・脱線モード・オフ。
この事件と投資が殆ど不可能となった時点でEの言動は益々否定的になり、Aに対する感情(殆ど憎しみのような)はこの投資問題で決定的となった。Aと相談の上臨時ボード会議(役員会議)を開催して、Eを解任した。この時点では、ボードには我々3人が入っていた。2対1で我々のE解任決議が可決された。その際Eに対して、投資分に相当する株式の返還を求めたが怒り狂うEは拒否した。以後Eとは一度も会っていない。
9.11の後しばらくは動きが鈍かった。この時期を利用して会社の整備を図った。マーケティングや営業の人の採用やMITの研究者との議論を元にして技術拡張などを考慮した。そして、遂にアトランタ空港で実際のOS-2の箱と関連する会社や政府組織を見学に行くことになった。次回はその3としてその際の話と筆者とAとの別れについて述べる。