好き過ぎて、嫌いになる。
異性に関わらず、同性や趣味のこと、仕事、会社、生活に関わること・・・全て含めて、自分の場合、0(ゼロ)から一瞬で燃え上がって好きになる、ということは無い。
とっかかりで好印象であることはもちろん大事。その段階でマイナス、になってしまうと、なかなかその後のきっかけで0(ゼロ)以上に持ち直すことはほとんど無いのだが、たいていの場合、どんなことがあろうとフラットな位置に置いている。
じんわり、じんわりと、そのポジションが上がっていくようなシチュエーションやきっかけ、情報などがあり、その集大成として(?)、以前に書いた偶然の発生により、一気にその想いは頂点を迎える。
手に入るもの、一方的に思っていれば良いもの、それはそれぞれ。
そのまま自分が思ったとおりの状況が確保されると、ずっと好きで居られる。
でも、万物は流転。それは当然のこと。その流転が決して自分の想い通りでは無かった、としても、その時、きちんと冷静に、「これは自分の想いの方が進歩が無いだけか?」を判断しているつもり。そして、流転の行く末が正常な進化に向かっている時は、自分の想いを修正する度量は持ち合わせているつもりだ。しかし、そうでは無いと判断できる時はどうだろうか?
また、想いが強ければ、それだけ情報量を集めようとする。結果として、今まで耳に入ることの無かった情報が自然と入ってくるようになる。この時、頂点を迎えるまでには入ってこなかった・・・いや、正確には入ることも無ければ、きちんと見据えることも無かった情報が入ってくる。そうすると、元々自分の想いを形成するまでに集まってきていた情報とは全く逆の側面ばかりが溢れ出すこともある。それは自分の想いを試すための試金石なのだろうか?
そんな時、自分自身の姿を、遠くで傍目から見ている自分、というのが登場する(ややオカルトチックだが)。
「お前、何が好きなん?どこがええの?何でそこまで想えるの?」と。
ここで、自分の中での自問自答で、ポジ意見がネガ意見よりも多く出る時は、清濁合わせて飲み込む覚悟さえ出来れば良い。でも、そこでネガ意見が上回る時は・・・後は転落しか無い。そうなると、今まで好きだった当事者として登場していた自分はもうどこへやら、前述の遠くで傍目から見ている自分が常に居る感じになってしまう。
こうして、いくつもの好きと嫌いを繰り返して、自分は生きている。
追伸:自分は、この詩集のうちの「あなたを嫌いになる理由を・・・」云々が異常に気に入り、何度も読んで涙するようなおセンチな浪人生だった。なんでこれが唐突に出てくるか、と言うと、読めば分かる!・・・というかこの詩自身をご存知の方も多いか、と思われるが。
手にとったきっかけは、まぁ、芸能界デビュー直後の森高千里さんだった訳だが・・・。
補足:あ、念のため書いておきますが、家庭は円満で、波風の立つような事実も無いので、あしからず。じゃあなんでこんなエントリー内容なんだ?と言われれば、まぁ、それが今表現したかったことだからです。