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人材育成の現場で見聞きしたあれやこれやを徒然なるままに。

やりたいことがあったら今やった方がよい

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友人があるとき、「●●さんの本をたくさん買っ、でも、一遍に読まないことにしているの。老後の楽しみにとってあって、仕事が落ち着いたら、ゆっくり読もうと思っているの」と言っていて、すごく驚いたことがある。

「そういう積読があるんだなぁ、なるほど」

その●●さんはすでに故人で、もう新しい本は(さほど)出版されないことが分かっていた。さほど、というのは、「トリビュート本」とか「過去のエッセイを再編集したもの」というのが数年に1回はまだ出版されることもあるからなのだが、それでも、新作が出るわけではない。
これほど友人が絶賛する●●さんのエッセイはどういうものだろう、と私もほとんどを買って、ほとんどを読んだ。確かに面白い。こういう書き手が若くして亡くなったというのは、日本の損失だ、とも思った。


話は戻すが、

大切な、大好きな書き手の本を、絶版になったら困るから、とりあえず買っておく。けれど、すぐには読まない。老後、時間に余裕ができたら、少しずつ読もうと思う。

そんな楽しみ方も素敵だな、と思った。

その話を聴いてから、大好きだったのに「故人」となってしまった何人かの書き手の本は、どんどん集めてストックするようになった。ただし、友人のように「読まずにとっておく」ではなく、「読んだ後、とっておく」スタイルである。

いつでも買えるかな、と思う本は、結構処分してきたが、故人のそれは書棚に並べて、友人が楽しみにしているように、老後にちびちび読もうと背表紙並べて、ほくほくしていた。

昨年末だったか、たまたま手元に読みたい本がなくて、私の「いつかまた読もうと思う故人のコーナー」から1冊のエッセイをピックアップした。

「ああ、そうそう、こういう文体だったなあ。こういう論調だったなぁ」と15年以上ぶりに手にした文庫をしみじみと読み進める中で、ふと、「以前ほど気持ちが盛り上がらない」自分に気づいた。

「今の時代、こういう考えって、どうなんだろうなぁ?」
「いつの話なのかなぁ」

とやたらとなんだか突っ込んでしまう。心の中で。

あんなに好きだった書き手の文章、内容が心にしっくりこなくなっている。

いや、今でも面白い。面白いし、なるほど、と思う。

だけれど、15年前にわくわくそわそわして、すべてを買い漁ったあの時の気持ちではもうない。

なんというか。

「昔好きだった男の子と20年ぶりにクラス会で再会するのでわくわくしていたのに、実際会ってみたら、とーってもつまらない人だったと知った」みたいな感じか? いや、言い過ぎか。

2-30冊以上「積読」になっている「いつかまた読むぞシリーズ」は、どの書き手のものであっても、そう感じるようになっているかもしれない。


「もう、昔の私じゃないのよ。」

そうか。読みたいと思ったその時に読まなかったら、心ときめくこともなくなってしまうこともあるのだ。

本だけじゃない。

きっと、「いつかやろう」「いつかしたい」と思っていても、その「いつか」がやってきたとき、すでに興味を失っていたり、能力的にできなくなっていたりすることなんて、いっぱいあるような気がする。

「リタイヤ後に、思いっきり編み物するんだー」と思っていても、編み物に興味がなくなるかもしれない。あるいは、目が悪くなっていて、とてもじゃないけど網目を数えられないかもしれない。

「定年後、北海道一周するんだー」と思っていても、北海道に関心がなくなる可能性もある。もちろん、体力がなくて、動き回れないかもしれない。

「やりたいこと」があったら、「あとで」なんて言ってないで、「今」やったほうがいいのだ、きっと。

財力とか時間とか制約はいろいろあるだろうけれど、それでも、先送りにしないほうが後悔も少ないような気がする。


大好きだった書き手の本に心ときめかない、という事実を目の当たりにした衝撃から、こんなことを考察したのであった。

いつやるの。

今でしょう。

ちと古いけれど、普遍的な言葉なんだ、これは。

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