「根性出せ」と言われても。
「仕事というのは、”根性”でやるもんだ」
「何はともあれ、”根性”を見せろ」
・・・・・。
昭和な感じのこのセリフは、まだまだ職場で聴かれることが多いようで、ちとびっくり。(何人かの受講者の方から立て続けにうかがいました。「うちの上のほうにこういう感じのことを言う人がまだたくさんいる」という苦笑いの愚痴を)
それ以外にも、たとえば、
「昔は、40℃の熱があっても仕事をしたもんだ」
「仕事をしていたら、親の死に目に会えないこともありうる」
なんてのもあるし。
あ、実際、私も、40℃の熱が続いている中、意識朦朧として研修したことがあります。代わりの講師がいなくて、迷惑をかけると思って我慢したのですが、今思えば、キャンセルにしていただけばよかった話です。だって、インフルエンザだったのだから(25年前の話。当時の受講者様、申し訳ないです)。
なんというか、「頑張ればいい」「根性」「親の死に目にも会えない」・・・というのを昭和な人が口にする時って、「頑張った私を認めて!」という心の叫びが聞こえてくる感じ。
私が「昔、40℃で研修したことある、意識朦朧としていたけど」と口にする時も、「褒めて!認めて!」と思っている。いや、すんません。
でも、ですね。
こういうの、もう古いですよね。
以前、「ノスタルジーで生きている中高年が困る」という発言をある企業の若手の方から聞いたことがあり(ココに書きました)、そうだよね、と思ったのですが、「40℃」「根性」「死に目」も同じように「ノスタルジー」な感じがしてしまう。
「根性」はもちろん、ある時必要だと思いますが、それは、自らが出すものであって、内面からにじみ出るものであって、他者から「出せ!」と言われて出るもんじゃない。
そんなの、根性のカツアゲみたいです。
働き方も、働く際の想いや価値観もどんどん多様化している中で、いつの時代も変わらぬ大切なことは保ちつつ、「もうそれは、捨ててもいいんじゃないか」という考え方は、Renewalしていくことも大事だなあと思うのです。
Unlearn(アンラーン、学習棄却)は、中高年にこそ求められることだと思うのでした。
40℃あったら堂々と休めばいいし(「腐ったみかん」になるから、自分のためだけじゃなくて、世のため人のためだし)、
親の死に目には間に合うに越したことないし、
根性は、自分が出そうと思って出すものだし。
そうそう、昔、
「淳子さん、仕事より大事なものがあるの?」
と真顔で上司に問われた時、私は、口をぽか~んとしてまじまじと彼の顔を見つめてしまったことがありました。
何を言っているのか、わかりましぇーん、と。
あれもまた、今思えば、「昭和のノスタルジー」だったのでしょうか。