「怒り」と「悲しさ」は親戚なんじゃないかと思う
「オルタナトーク」が「怒り」をテーマにしているようですが、他の方のをあまり読みもせず(すんませんw)に、「怒り」というキーワードだけ反応して、つらつらと書いてみます。
30歳前半くらいまで軽いアトピー持ちで、顔だの首だのしょっちゅう痒くなっておりました。皮膚科に通い、軽いステロイド系の薬をもらって治療しつつ、医師からは、「掻いてはいけない」と、当たり前のご指導を受けました。
その時、皮膚科主治医の言葉はとても印象的でした。
「痒いは、痛いの親戚!」
「痛点」というのはあるけれど、「痒点(ようてん?)」ってのはないんだよ。だから、「痒い」というのは、「痛い」の親戚で、「痛い」の軽いのが「痒い」なのだ。だから、「痒い」と思って、掻くのは、「痛い」のを掻いているのと同じだから、「痛い」だったら、掻かないでしょう? 「痒い」のを掻いてはいけないよぉ・・・。そんな説明だったような。
(これは、中学生の時に訊いた話なので、もう35年くらい前のこと。今の医療・治療と同じなのか違うのかは知りません。)
「痒いは、痛いの親戚」。
へぇ!! と、目からうろこ。 なるほど。痛いの軽いのが痒いなのかー。
「怒り」も似たような部分があるのではないかなあ、と思ったりします。
不肖ワタクシ、若かりし頃、ケッコンしていたことがありますが、「洗濯」について、オットと意見が合わずに苦労したことがありました。(20代の結婚で、まあ、今思えばくだらないことといえばくだらないし、案外、重要なことだったのかも知れないと思わなくもないのですが)
基本的には、家事全般をワタクシがしておりまして、洗濯もしかり。
洗濯が終わったものを洗濯機から取り出すと、オットの下着だのシャツだの靴下だの、ことごとく裏返しなのですね。靴下などは、裏返しの上に丸まっている。
裏返しになっているすべての衣類を、干す際に表に反すのが、とてもイラっとするものでした。(裏返したほうがいい、という説もあるかもしれませんが、田中家は表にして干すという家だったので、習慣として、表にして干したい)
仕事もしていて、できるだけ家事の時間を短縮したいのに、オットのものを干すのに、いちいち全部表に直すことで時間を取られることに本当にイライラっとしていました。
ある日、とうとう我慢できず、「洗濯機に入れる際、表に直しておいてほしい」と伝えました。すると、オットは、こう言いました。
「脱いだまま入れるほうが楽だし、裏のまま干してもらって構わない」
「そのまま干したとしても、畳む時にやはり、表に直さなければならないじゃない」
「裏のまま、畳んでおいてもらっても全然かまわない。着るときに自分で直すから」
「それは気持ち悪いのよ」
・・・不毛です(笑
私は、表にして干したい、当然、表の状態で畳みたい。
オットは、裏で干してもいいし、裏のまま畳んで箪笥に入っていても構わない。
でも、私が「洗濯」を担当している限り、私の考えに合わせて欲しい、とかたくなになりました。
ある日のこと、仕事から帰って来たオットが、風呂入るぅーとお風呂場に消えていきました。
ふと見ると、寝室→ダイニング→洗面所→風呂の前・・・と、オットの脱いだものが点々と並んでいました。ヘンゼルとグレーテルが落としたパンのように。すべてが裏返しで。
裏返しのシャツ→裏返しの下着→裏返しの靴下→裏返しのパンツ・・・そして、お風呂の入り口には、極め付けに裏返しのスリッパ。
それを見た時、その無言の抵抗に涙がこぼれてきたのでした。
「ああ、こんなにまでして、裏を主張するのか」と。(ホント、くだらない話ですね、こうして書くと。笑)
・・・
このヘンゼルとグレーテルが道々に並べたパンのような、裏返しのものどもを眺めながら、怒りは悲しみに変わったのでした。
「怒り」というのは、「自分の心の中にある、”こうあってほしい”とは異なる結果に対して湧く感情」だと思います。期待通りにならない、自分の思うようにならない時、怒りを感じる。
でも、それは、悲しみと隣り合わせのように思います。自分の想いが通じない、自分の考えが軽んじられた。自分が大切にされていないように思う。(全部、自分の中で起こっていること、です)
だから、「怒り」と「悲しさ」は親戚なんじゃないか。
昔から怒りっぽかった80歳の父、老境に入り、さらに怒りっぽく、何で怒りだすか娘も想像つかないことがあるほどです。
軽い脳梗塞を経験しているため、言葉が多少不明瞭な部分があります。話している時、一瞬、なんと言ったのか聞き取れないことがあります。「ん?なあに?」と優しく聞き直したつもりであっても、父は、それにイラっとするらしいのです。 「#%○XS(w%!!! と言っているのにわからないのかっ!」と突然怒鳴り始める。
父が何かを私たちに頼んだ際、こちらも手が離せないことがあって(天ぷらを揚げているとか)、すぐ応じないと、「頼んでいるのに、なんでやってくれないんだっ!」と怒鳴る。 怖いんです。父。
ただ、これも「怒り」と「悲しさ」は隣り合わせ、と思えわなくもなく。
現役時代、ばりばりと仕事をしていて、本当に仕事しかしたいことがなくて、引退したら、急にしょぼんとしてしまい、食べることくらいが楽しみで、でも、身体が多少不自由になってきて、思ったことが伝わらない、自分の動作も緩慢になり、周囲と同じように振る舞えない。
「80歳になればわかるよ」とよく言われますが、なんせ、母も私たち娘も今はその歳じゃないので、そんな「伝家の宝刀」的言葉を言われても、黙るしかない。
きっと、私たちにだけではなく、うまくできない自分にイラつくのだと思うのです。
「悲しい」の表現方法が「怒鳴る」という「怒り」に変換されてしまう。
「悲しい」と表現された方が私たちも対応の仕方があるのだけれど、(だって、突然怒鳴られたら、ビビるだけだし、「触らぬ神にたたりなし」で、できる限り、感情を刺激しないように、と気を遣うばかり。穏やかな気持ちで接するのはとても難しくなりますから)でも、当人は、素直にそうも言えず、とりあえず、身内に甘える気持ちもあって「怒り」で表現するんだろうなあと。
・・・
痒いのが痛いの親戚だったのと同じように、「怒り」は「悲しさ」の親戚なんじゃないか、と思うのは、こんな体験からなのでした。
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「怒り」については、これまでに何度か書いているので、エントリーのリンクを。
●『もう、怒らない』を読んで、「怒り」のコントロール法を学ぶ
→ 自分が不当に扱われたということが怒りになる、という話から・・
http://blogs.itmedia.co.jp/tanakalajunko/2012/01/post-7475.html
●誰かによって、「怒らされている」」のではない。
→ 平木典子さんの本を読んで、「自分で自分を怒らせているのだよ」「自分が対応できない事態に遭遇したら、怒りを感じる。つまり、自分はこの事態に対処する能力がない、と言っているようなものだ」というお話・・・
http://blogs.itmedia.co.jp/tanakalajunko/2011/08/post-3ac3.html