誰かによって「怒らされている」のではない。
昨日のエントリーの続き。平木典子さんの本。最後のほうに「どんなときに怒りを感じるか」という項目がある。
その部分を読んで、おおぉぉぉぉ!と納得してしまった。
いわく、
「周囲のせいで怒らされたと思いがちですが、じつは、自分が自分を怒らせているのです」
と。
この一行を、年がら年中怒っている、昭和ヒトケタのわが父(推定80歳)に聴かせたい。
(話は、変わるが、わが父は、基本的には穏やかな人間だ。しかし、ちょっと意に染まないことがあると、それが家族との問題であれば、すぐ怒る。年齢を重ねるごとにどんどんひどくなっている。「頑固オヤジ」の最高峰にいるくらいの存在だ。「父権復活」なんて言葉は、わが田中家にはない。一度もその地位は没落したことがないから。 「頑固オヤジ」とか「オヤジが怖い」という体験をしたことがない人も増えていると思う現代においては、博物館ものである。だから、「江戸東京博物館」に「これが”昭和の頑固オヤジ”です」と展示してもよいくらいだと思っている。)
脱線しすぎた。話を戻す。
平木さんの解説によると(本著では、図解してある)、
【怒りのメカニズムとは】
●自分にとって脅威が起こると・・
→ そのことに対応できるかどうか、つまり、わが対応能力の範囲内かどうかを判断
1.対応できると判断・・・・怒りを感じない。自分で冷静に対応できるから
2.対応できないと判断
2-1. 正直に「怖い」と言えばよろしい
2-2. それができない人が「さらなる脅威」で誤魔化そうとする
つまり。
「怒り」は、自分にとっての「脅威」に起因するのだが、その「脅威」に対処する力が自分にはないと判断し、なおかつ、それを「正直」に認めたくないとき、相手からもたらされる「脅威」よりもっと大きな「脅威」を相手に与え、なんとか均衡を保とうとする、というわけだ。
だから「強い怒り」で表現しなければならなくなる。(怒鳴るとか強い言葉を使うとか、かな)
平木さんは、こんな風にまとめている。
「攻撃的な怒りの表現とは・・自分の無力を認めず、相手に脅威を与え返すことで、その場をしのごう、優位を保とうとする行為」
あああ、すごく納得した。腹に落ちた。
そうだ、自分に対応できることだと思ったら、冷静に落ち着いて対処できるはず。
それができないから、「怒り」で返してしまうのか・・・・。
話は、ちと変わるけれども、数年前、地下鉄の中でもめている男性がいた。
おじさんが若者にいちゃもんをつけている様子。車両の端と端くらいに離れていたので詳細はわからないのだけれど、少し酔っぱらっていると思われるおじさんが、若者に「ばか野郎、この野郎」と言っている。若者は無視しているみたいだった。たぶん、ちょっと肩が触れたとか、その程度のことだったのだろう。すると、おじさんは、「なんだよ、ばか野郎、この野郎」「$*&$W#だぞ、ばか野郎、この野郎」「*%2!$)・・・ばか野郎、この野郎」と、何か小さく言っては、全部に「ばか野郎、この野郎」をつけて、威嚇しはじめた。
もうすべての語尾が「ばか野郎、この野郎」なのである。手を出したりはしていないので、周囲も止めに入った様子はない(なんせ10メートル以上先の出来事で詳細は見えない。おじさんの声だけ車内に響く)
ひたすら続く「ばか野郎、この野郎」に車内には失笑が漏れ始めた。次の駅で、若者は無事降りて行った。その背中に向けて、おじさんは、「覚えてろよ、ばか野郎、この野郎」と吐き捨てるように言った。(大丈夫だ、おじさん!彼はきっと覚えていないから。いや、私はこうやって覚えているけど)
この時、「ああ、語彙力(ボキャブラリー)って大切だなあ」とつくづく思った。
この場合のおじさんの怒りの原因がなんだったかわからないけれども、もっと豊富な語彙を持っていたら、相手に伝わるように自分の不快な気分を説明できたのではないだろうか。(ま、酔っぱらっていたみたいだから、そういう論理が通用する場面ではなかっただろうが)
「怒り」「不快感」を感じた時、暴力的(言葉の、も含む)に出てしまうのは、語彙力の欠如から来るのかな、とも思うのだ。
そうそう、叔母バカ道驀進中のアタクシ、2歳児を間近に見ている。彼は、生まれた時からなんというか「ご機嫌」な赤ちゃんで、今でも基本的には常に楽しそうに過ごしている子なのだが、やはり、子供。たまに「気に入らない」「これがしたい!のに大人に止めさせらえた」という場面がある。そんな時、全身をのけぞらせ、手足ばたばたして、泣いたりする。
「言葉で説明できない」から「全身で表現するしかないんだなあ」と思う場面だ。
だから私は、彼にこう言う。
「いい、○○ちゃん。ちゃんと説明できるようになったら、いいんだよー。自分の想いを伝えるためにも、早く、言葉をたくさん覚えようね。成長、成長!」と。(← もちろん、半分ジョーダンである。2歳児には2歳児の発達段階があるのだから)
話は元に戻すけれども。
平木さんがおっしゃるように
「自分に対応できない脅威」に対して、より強い怒りで反応する。・・・って、だから、大人の場合、実はカッコ悪いことなんだな。
怒鳴る上司。
不機嫌な部下。
どっちもカッコ悪いのだ。「自分に対応できない状態だ」と吐露しているものなのだから。
わが身を振りかえると、20代は、なんだか常にぷりぷり怒っていた。
30代になって周囲から「丸くなったねぇ」と言われるようになった。
40代の今、めったなことでは怒りを感じなくなった。というか、怒りではなく、「不快感」「違和感」くらいしか覚えなくなった。
歳とって生命エネルギーが弱ってきたから、かと思ったけれども、違うんだな。たくさんのことを体験してきたから、それによって「経験則」がひきだしに詰まっていて、たいていのことは、「自分に対応できる」と思えるようになったから、なのかもしれない。
そして、もし、何か自分に対する脅威を感じたとしても、「怒り」としてあらわすのではなく、豊富な語彙力を駆使して、自分の気持ちを相手に伝えればよいのだと思う。それが大人の嗜み。たぶん、きっと。
うん。やはり、「機嫌よく」過ごすに限るなあ。
周囲のためだけではなく、自分のためにも。
そんなわけで、今日も楽しい1日を♪
★読んだ本はコレ。
平木典子 著 『図解 自分の気持ちをきちんと<伝える>技術』 PHP研究社