多様性とはベクトルが逆の「何か」もあるような気がする
こんにちは、しごとのみらいの竹内義晴です。
最近、多様性という言葉をよく聞くようになった。
多様性の意味を調べてみると、「いろいろな種類や傾向のものがあること」や「変化に富むこと」で、単に「みんなちがう」「いろいろある」という意味ではないらしい。「群が形成されていること」が多様性の特徴らしい。
とはいえ、あまり言葉の意味にこだわってしまうと、話の本質からずれてしまいそうなので、ここではあまりこだわらず、「みんなちがう」「いろいろある」も含んだものとして考えてみたい。
多様性という言葉は、「いろいろな種類や傾向のものがある。だから、お互いを尊重しよう」という感じで使われることが多いように思う。「みんなちがう。それで(それが)いいんだ」という印象だ。
人は一人一人ちがう。それぞれの人を尊重する上で、「みんなちがう」は大切な価値観だとは思う。
でも、「みんなちがう」が、なにがなんでもいいのか......というと、かるい違和感が、ボクの中にはある。
「何が、ボクに、この違和感を抱かせるのだろう?」
それはおそらく、「みんなちがう」ではない、どちらかといえば、ベクトルは逆方向の、「人として大事なことは、間違いなくこういうことだよね」みたいな、一つに収束されるような「何か」があるのではないかと、感じられるからなのかもしれない。
それは、ボクの中にある価値観がそう抱かせるというよりも、なにかこう、身体感覚が訴えかけてくるような感じがしている。
では、「一つに収束されるような『何か』」とは、一体、何なのだろう?......これを言葉にしてしまうと、「幸せ」とか、「愛」とか、「尊重」とは、使い方を間違えると薄っぺらく、うさん臭く感じられるような言葉にまとまってしまいそうな感じがして怖いのだけれど、なんとなく、そういうものではないような感じもする。なんだろう?胸のあたりにある、この感じは。
それでも、その感覚をあえて言葉にしてみると......「生きる」という言葉が浮かんできた。あぁ、そうだ。「みんなちがう」は「ばらばらな感じ」が嫌なんだ。
だからといって、「みんな一つになって生きましょう」と言葉にするのも、何かが違うような気がするし......あー、困った。
ボクたちが生きていく上で、「これは譲れないよね」「何があっても、これって大事だよね」みたいな、大切な「何か」、あるいは、大切な「価値観」みたいなものはあるように思う。その価値は一定で、「みんなちがう」とは異なるベクトルだ。
そういうものは確実にあるような気がする。
今日もお読みいただきありがとうございます。言語化できない感覚は、気持ちがわるい。
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