「理不尽さ」に対して説明が果たす役割
こんにちは、しごとのみらいの竹内義晴です。
先日、理不尽なことがあった。
具体的な内容を書くのはいろんな問題があるので避けるが、一言で言えば、数十人の前である人物から「これは昔からのルールだから」と言われ、「命令に従えないのか!」とののしられ、「お前、調子に乗ってんじゃねぇぞ!」「上等じゃねぇか!」「表へ出ろ!」と大きな声で罵倒されたのである。
このような事態を招いた背景には、いわゆる「昔からのルール」というやつに、ボクは合理的な理由が見つけられず、納得できなかったことにある。
正直、多少納得できなくても、それをグッと飲み込んで「そうですか。昔からのルールですか。じゃあ、そうします。さーせん」とでも言って、先方に従っておけば、それほど大きな問題にはならなかったはず。それほどこだわりがあることでもなかったし、それがいわゆる「大人の対応」だったのかもしれない。
けれども、最近、ボクの周りではどうも「理不尽なことでも従わなければならない」風潮があった。ボクはそれをなんとかしたいと思った。また、納得できないことを強要されることについて、幾分ガンコなところが、ボクにはある(「融通が利かない」ともいう)。
そこで、ボクは先方に質問した。「もし、〇〇さんが『ルール』とおっしゃるなら、それが決められた理由があるはずです。その理由は何ですか?」「もし、それが『ルール』として決まっているのであれば、それはいつ、どのような経緯で決まったのですか?」
先方はボクの質問に答えられなかった。なぜなら、そのルールは――おそらく先方が勝手に決めたもので――何かしらの議論があって合意形成されたものではないと考えられるからだ。実際、ボクはその組織に属して十数年になるが、そのルールを聞いたことが一度もない。その結果、「いや、昔からそうだから」→「暗黙の了解だから」→「命令に従えないのか」→「上等じゃねぇか」となったのである。
これまで、いろんな経験を重ねてきた。大きな声で脅されても多少のことなら怯まない度胸はついた。「表へ出ろ?こっちこそ上等じゃねぇか」である。でも、それを口にすると火に油を注ぐだけなので言葉にするのはやめておいた。第三者が入り、先方は「大きな声を出したこと」、ボクは「言い方」を詫びて幕はひかれた。
そんな経験を最近した中、サイボウズ副社長山田理氏のコラム理不尽を受け入れること──質問責任と説明責任が大事という記事を読んだ。この記事にはこうある。
自分が理解できないことをする場合、その人には「なぜする必要があるのですか?」と問う「質問責任」があり、それをしてほしい人にはその問いに答える「説明責任」がある。お互いがそれぞれの責任を果たすことがチームとして大事。
出典:理不尽を受け入れること──質問責任と説明責任が大事 | サイボウズ式
「我が意を得たり!」という感じがした。チームで仕事をするときには、納得感が必要だと思う。理不尽な気持ちのまま「仕事だから」と受け入れるのではなく、その理由を問う必要があるし、それをしてほしい人には「なぜ、そうなのか」を説明する必要があると思う。
けれども、その環境に長くいる人ほど(もちろん、ボクも含めて)、その理由を説明しないまま、「昔からのルール」とか「そういうものだ」と言ってしまうことが、往々にしてあるのではないか。「命令に従えないのか」と、力ずくで押し切ろうとすることがあるのではないか。
また、合理的な理由がないまま、ルールに縛られていることはないか。ルールが多いと、何かとギスギスするし、何かとめんどうくさいものである。
なお、前述の山田氏の記事には、こうもある。
自分の経験が浅く人から教えてもらいたいと思っているのであれば、質問責任は認識しつつも、「経験を積む」ためには「理不尽を受け入れる」ということも意識しておいてもいいかなと。
出典:理不尽を受け入れること──質問責任と説明責任が大事 | サイボウズ式
「そうだな」と思った。
今回の対応には、ボクにも反省すべきところが多々ある。今回は理詰めで問い過ぎた。意見の対立が起こっているとき、先方がなぜ、その考えを持つに至ったのかを質問してもよかったかなと思うし、肯定的な言い方もあったのではないかと反省している。
本質的な問題は解決していない。けれども、自分の意見を言ったことには後悔していない。今回は「よい経験をした」ということにして、自分の中では処理したい。
今日もお読みいただきありがとうございます。失敗は成功のもと。