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通信業界特殊偵察部隊のモノゴトの見方、見え方、考え方

縁があると言えばある、自分にとってのフランスという国

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今まさに話題のフランスですが、私自身にとってなんの関わりもないかというと実はちょっとだけそうじゃない部分があったりします。でも別に誰か知人がいるとか住んだ事があるとかじゃないんですが。

例えば学生の時に第二外国で選択した訳でもなく、実際に選択したのは意味はわからないけれど発音のルールは比較的単純なので文章を読むことはできるスペイン語でした。

でも、初めて1人で行った国はフランスだったんです。
そして、ふと思い起こすと少なくとも今の時点でおそらく通算滞在期間はフランスが他の国を押さえて最長になる気がしています。少なくとも通算2ヶ月以上。
最初に行ったのはもう干支が3回まわった36年も前ですが。

実は通算で一番長く滞在した国かもしれない、自分にとってのフランス

とりあえず最初にフランスに行ったのは1988年の夏。4週間弱の南仏ニースへの出張でした。なぜバカンスシーズンのニースに日本から出かける仕事があるんだよお前は一体何をしに行ったんだよという声は当然出ると思うのですが、実は当時の勤務先の研究所がそこにありまして、っていうか今でもあるんですけれど、そこのブリーフィングセンターというところに丁稚奉公に行ったんです。25歳の知ったかぶりする方法くらいしか物事を知らぬ基本的に生意気な若造をそんなところに長期間丁稚奉公に出してくれた当時の組織と上司には今でも感謝するしか無いのですが、まぁ何れにせよフランスに行きました。

ただ、実はこの出張、出発の1週間前までは私と先輩の二人で行くはずだったんですが、直前になって組織上の大人の都合により急遽私が1人で行くことになり、成田空港まで見送りに来てくれたカミさんに手を振りながら足も震えてたのを本当によく覚えています。「こんな話聞いてないよ急に何なんだよこれからほぼ1ヶ月周りの誰も日本語話せないのかよ」という事実は本気で怖かったです。

そう言えば私自身の海外への渡航歴自体は恐らく都合20から30回位になると思うのですが、前年の新婚旅行と溜まったマイレージの消費の渡航の計2回を除くそれ以外は全て仕事での出張で、実は現地観光というのをした経験がほぼありません。
まぁ今更海外にまで観光に行く理由も気概もお金も無いので別にいいのですが、

え?私、フランスって何もわからないんですけれど?

当時のわたしにとってフランスはシャンソンと料理とケーキとワインと写真家のアンリ・ブレッソンさんとシャルル・ドゴール大統領くらいしか思い浮かびませんでした。しかも行き先はパリやその周辺じゃなく南仏コートダジュールのど真ん中のニース。バカンスシーズンにも関わらず宿泊先はニースの中心部に押さえることが出来ましたが、そこから目的地の研究所までは車で30分。一応念の為国際免許は取りましたが、フランスの交通ルールなんて当然知りません。いや、フランス以前に日本以外でのルールを全く知らないのですが、何れにせよカーナビなど想像すらつかない1980年代後半に知らない言語の地図見ながら知らない土地をレンタカー借りて自分で運転するなんて正直生きて帰れるかすらわかりません。

運転無理です。
絶対に無理です。

ということで毎日タクシーで往復することに。とりあえずその交通費までOKしてくれた当時の組織と上司には今でも感謝するしかありません。

「海外とのやり取りは基本電話か手紙という昭和な世界」と括ってしまうと身も蓋もありませんが

生まれて初めての海外出張が南仏のニースだったわけですが、まぁ向こうに行ってる間は生死にかかわらない範囲でしたがいろんなことが起きました。

因みにまだ日本とメールなんか簡単に通らない以前に日本は愚か世界中に於いてインターネットワーキングのサービスが存在せず、例えば当時の勤務先ではProfsと呼ぶメールシステムが既に世界中の各現地法人のオフィスで使えましたが一般的にはそういう公衆サービスはない時代です。当然スマホなど生まれる前の話で、自動車電話やテーブルにゴットンと置く携帯電話が遂に登場したバブルな頃。世の中では土地や株を転がしてポルシェやメルセデスや億ションに化けさせる人が大勢出たり、BMWは六本木のカローラと呼ばれていたり、ザギンでシースーとかヘリコプターで東京から札幌までラーメン食いに行くお大尽が話題になるとかギーロッポンのスクエアビルが上から下までディスコで毎晩大騒ぎな時代でしたが、何れにせよメールはありません。連絡手段は手紙か音声通話の固定電話、そしてポケットベルが一般人の基本です。

因みに世の中的にはテレックスがまだ全盛で、商社とか石油関係といった業種では名刺にご自身が所属する部署のテレックスの番号が入っていたりしましたね。

え?テレックスって何かって?

乱暴に言うとこちらにはキーボードがあって電線で繋がった先にタイプライタの印字部分だけがあって、こっちで「A」って押すと何百キロ何千キロ先にある向こうの印字装置で「A]って文字が出るんですよとか言うと「ちょっと何言ってるかわからない」とざっくり切られそうですが、まぁそんな時代でした。

で、それは横においといて、日本との連絡の話

一応仕事の電話としては当時の勤務先では社内系での国際内線電話が使えたので時差だけ考えれば良かったのですが、日本にいる家族と話をするには普通に国際電話しかありません。

でも1分あたりで数百円単位で課金されていた時代です。正直話し込んでしまうと幾らになるかわかりません。ということで日本の家族と電話で話すときには着信払いのコレクトコールです。日本の国際電信電話株式会社(KDD)さんのお仕事です。

で、例えば空港などにあった国際電話ができる公衆電話とかなら発信者課金でも日本国内の電話に架けることは出来るようになっていましたが、クレカで請求額に怯えながらかけるか湯水のごとくの現地硬貨を使うかとか色々面倒くさいので空港での到着連絡以外に日本までダイヤル直通で架けたことはなかったと思います。そうです。フライトレーダーみたいなものも当然ありませんから、行き先に着いたかどうかは電話するしかありません。その他ホテルの電話から架けて部屋にチャージしてもらうとか方法はありましたが、まぁお幾ら万フラン(ユーロの前ですからフランです)になるか判らなくて怖くて出来ませんし、仮に自分でフランスのオペレータを呼び出してクレカ番号を申告しての発信者課金で日本に電話しようとしてももそもそもオペレータが何を言ってるのかわかりません。

当然です。私、フランス語知らないんですから。

ということでKDDさんのコレクトコールが当時の私にとっての日本の家族との電話連絡の生命線

国際電信電話株式会社のKDDです。
1953年に当時の電電公社から分離独立させた日本と海外との国際電気通信・国際電話を担っていた企業です。
第二電電DDIと日本移動通信IDOと合併する前の国際電信電話KDDです。

因みに合併後に出来た株式会社ディーディーアイが社名を株式会社KDDIにしたときにKDD+DDIでKDDIになったならなかったという議論が当時のITや通信の業界の一部で出たりしたこともありましたが、当時の「私」自身は関係する各方面の中の人ではない and/or なかったので正確な事は知りません。多分。

で、まぁそれはともかく、当時フルタイムで働いていたカミさんの帰宅時間を踏まえた日本との時差や通話時間を気にしながら日本に週2回くらい電話してたんですが、今思い出すとロクなことしか思い出せません。

「フランスは嫌いだ」
「フランス人は英語を知らないから英語を喋らないのが判った」
「bonjourとbonsoirは通じたぞ」
「カフェのギャルソンまじ英語知らんし俺まじフランス語知らんし」
「インスタントの松茸の味お吸い物が超絶旨い」
「フランス語の40だけはわかるようになった」
「フランス許せん」
「日本に帰りたい」
「こいつら何考えてるのか全然わからん」
「パンとワインは安くても美味しい」
「フランス嫌いだ」

この時期のことは今でも色々思い出すのですが、日本と電話でフランスについての文句を山のように言っていた事は今でも本当によく覚えています。

ただ、本当に色々言ってたんですが、帰ってきて5年後に初めて自分の車として買ったのは現地で散々乗ったタクシーと同じフランスのシトロエンBXという車でした。

そして今となっては... 写真家のアンリ・ブレッソン先生の戦中戦後のパリを撮影した一連のスナップ写真の作品の一群は昔から大好きだったのですが、リュック・ベッソンさんの映画作品乱暴なのが多いけどカッコいいとか歳を取るならジャン・レノさんみたいな爺さんになりたいとか1970年代のシトロエンのDSかCXというモデルに今でも乗りたいと思ってるといった訳の判らないことを今でも口走る程度の「フランスは嫌いじゃないんだよね」な人というのは自覚しています。

因みに1988年のフランスというか欧州って結構物騒でした

因みにフランスに到着した最初の夜と帰国前日に一泊したパリは住めるかもって少しだけ思ったのはよく覚えています。
更に後年に2回くらいパリを経由して欧州に出張に行ったときにも同じようなことは思いました。

ただ、少なくとも1988年当時のフランスは主に北アフリカ系イスラムゲリラが入り乱れていて空港もパリ市内もテロ警戒のために自動小銃を手に持った二人組の憲兵とドーベルマンだらけでしたし、それとは別に状況によっては明らかに一括りとしてのアジア人を邪険に扱うような場面もゼロではなかったのは事実で、治安が良くないということの意味や「区別」や「社会階級」と言うものがどういう形で見えるのかといったことのある部分を、それらの良し悪しとは関係なく直接知ることは出来たとは思っています。

でもシャンゼリゼは「おーしゃんぜりぜ」だったし「パリの空の下セーヌは流れ」ていたし、裏通りのパン屋は何買っても美味かったし、道路の端っこは犬の糞だらけだったけど、不思議と面白そうでした。仮に住むとか考えるとめちゃめちゃ苦労するだろうってのも雰囲気でわかったし、誰もが知っているハイブランドの店でフラン紙幣やクレカを握りしめて行列してる日本人がいっぱいいましたし、それ以前から世界中に流れ出ていた農協ツアー的な人たちもまだそこそこ居たりした頃。昨今のインバウンドな人たちを見るとある部分既視感があるんですが、まぁそれはそれ。

ともかく「何だよパリって犬の糞とピカピカが一緒になっててさっぱり判らん場所だな」って思ってたんですが、でもなんだか住めるような気がしたのは事実です。

でも多分住んだらえらい目に会っただろうな当時のパリって、とは思っています。
何がどうだって上手く説明出来ないのですけれど。
但しそのうちのかなりの部分はパリというかフランスの問題よりも自分自身の問題だとは思っていますが。

でも、相対的に嫌いじゃないです。今でも。
全部が全部褒める気はないですが、嫌いじゃないです。今も。
少なくとも自分が行ったことがある大都市で言うとニューヨークやシカゴ、上海や北京、クアラルンプールなどよりは住める気がしてました。
あ、ウィーンは近いかも知れない。
あくまでも私自身のお気持ちの問題ですが。

---iwa

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