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通信業界特殊偵察部隊のモノゴトの見方、見え方、考え方

毎年8月6日と9日に思う個人的な事

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ちょっと前に妹から実家にあった昔の写真の束が「あとは任せた」と送られてきてつらつら眺めていたら、昭和38年当時高校生だった母方の叔母に抱かれる1歳の私の写真が出てきました。

その写真ですが、昭和20年8月10日前後に私の母親や祖父母叔父(母親の兄)が当時住んでいた山口県の下関市から「広島と長崎に落ちた新型爆弾は次は朝鮮半島との窓口の下関に落とされるに違いない」という噂を受けて広島市内を抜けて疎開したのですが、その際に当時祖母のお腹の中で胎内被爆し私が生まれた翌年の昭和38年に18歳で白血病で亡くなる少し前の写真です。

その写真が束のなかにあるのは分かっていたのですが、見たのは20年ぶりくらいです。

因みに私の父親は当時住んでいた長崎県の諫早市で8月9日に空襲警報の後で長崎の方向に単機で飛んで行くB29とその後の雲を見ていて、その後長崎に8月10日以降何度も行っていて事実上間接被爆してたりします。

新型爆弾が何者か判っていなかった当時の話です。

但し、父親からも母親からも、それぞれが長崎と広島で何を見てどう感じたかについては殆ど聞いていません。記憶の限り小学生の頃に少しだけ聞いたことがありますが、それだけです。そして故人である父親からはそれを聞くチャンスは最早ありませんし、高齢の母親も多分もう話さないと思っています。
でも話さない理由はわかっていますから聞きませんけど。

勿論色々思うところはあって、例えば私の両親はそれぞれ被爆者申請をしなかったんですが、その理由や時代背景は理解しています。ここは今の尺度や基準で考えては駄目な部分だし、今を起点にしてしまうと理解に時間がかかる部分だとも思っています。

でも外野が想像出来ないくらい、そして子であり孫である昭和30年代後半に生まれた自分にとっても想像出来ないくらい色々な社会状況が当然そこにあったのも理解しているつもりです。更に言うと、例えばその後の反核運動を取り巻く諸々や有名な漫画の話とかが色々嫌でその辺りの事を周囲には殆ど話してこなかった経緯はあるんですが、それはまぁ単なる自分のお気持ちですし、別に大勢に影響はありませんし。

あと、余計な話ですが1990年代前半に出張で行ったアメリカ東部のバーで「お前は日本人か?こいつらは私の親戚を戦争で殺したんだ」と絡まれたときに「俺は戦後の生まれだけどAtomic Bombの18年も後に白血病で叔母を亡くしたよ。戦争は不幸な歴史だけれど、例えば家族親戚を失った気持ちは俺もあんたも同じだと思ってるよ」って話をして最後は握手して別れた程度の経験ならあります。話を聞いてもらえるまで大変でしたけど。

何れにせよ、自分が少しでも関わる歴史として振り返る事が出来る事には感謝したいとは思っています。
出来事自体に感謝する気持ちはありませんが。

---iwa

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