「コミュニティノートの善は全能か」という晴れない疑問
X(旧Twitter)にコミュニティノートが導入されたのは一昨年の12月、そして日本語版で導入されたのは昨年の7月です。X自身のサイトにある機能の説明はこちらの通り。
引用しても良いのですが何かの拍子に説明文が更新されると嫌なので、本文はリンク先を見ていただくとして乱暴に一言でいうと "Xユーザーが協力して背景情報を提供することができる仕組み" であることですね。
向いている方向について、個人的には正しいと思います。社会集合知の力として正確な情報を得るための補足や何らかの指摘が入るという仕組みそれ自体は Social Network System としてのひとつの自助機能であり、かつ自浄機能ともいえるかも知れません。
ただし、大前提は「恣意的ではない正しい情報に導くためのコメント」が付くという前提で設計されていること。つまり性善説が大前提です。
しかしながら最初に書かれたこと、そしてそれに対して付くコミュニティノートが恣意的かどうかはその情報に接する人すべての価値観に依存するという、とても難しい問題を内包しているのは、この仕組みが公開される前から言われていた話ではあります。
あるべき姿の一つだとは思います。
でも唯一ではないとは思います。
でも他に何があるのかと言われても私如きが思いつくレベルでは世の中何も変わらないですけれど。
話をする主体に対する正当性を疑う立場、という対立関係
この流れで私がとても気になったのは、GIGAZINEさんに掲載された [2024年07月03日 10時38分 Xでハリケーンの予測針路に誤報を疑うコミュニティノートが付けられたため気象学者が「人間が死ぬ可能性がある」と非難] という日本語の記事。
そして、この記事の元になったIndependent紙のWebサイトの [X labeled AccuWeather's Hurricane Beryl map as misinformation. Meteorologists worry it could cost lives] という記事。
気象予測を専門とするAccuWeather社 のハリケーンBerylの進路予測に関するXへの投稿 に "Official hurricane forecasts only come from the National Hurricane Center (NHC)," the community note reads. "The system being discussed has yet to form, meaning this 'forecast' has very little data to back it up and has a low chance of verifying." (Googleによる翻訳: 「公式のハリケーン予報は国立ハリケーンセンター(NHC)からのみ発信されます」とコミュニティのメモには書かれている。「議論されているシステムはまだ形成されていないため、この『予報』には裏付けとなるデータがほとんどなく、検証される可能性も低いのです。」)
というコミュニティノートが付いたというのが事の発端。
因みに私自身は同社を擁護も批判もしませんが、同社は気象予測を専門にしていて、その予測内容について一定の評価を得ている企業として責任をもって投稿していると判断できると思っています。それに対してコミュニティノートを書いた側は自身の書いた主観的な内容を客観的に証明することはできませんから、いわば言い逃げの様にも見えてしまいます。
捨て垢でのクソリプ吐き捨てに近いモノと捉えらえれかねないとも言えますが、問題はコミュニティノートが付いたことにより元の投稿主に対する信頼性を情報自体の但しさとは別の側面から棄損することになるのではないかという危惧ではないかと思います。
今回の場合でいうとコミュニティノートを書いた人が...
- 単に今の気象予測を取り巻くテクノロジーの最前線を知らないだけかもしれない
- 実は同社を嫌いなのかもしれない
- 同社は利害対立する関係なのかもしれない
- 思想信条的に気象予測といったものを忌避する人なのかもしれない
...... 判りません。
ただし少なくともコミュニティノートが付いたという事実は残ります。
そしてそれが元の投稿主であるAccuWeather社にとって今後どんな影響を与えることになるのかは判りません。
流石に推し量りようがないですね、これは。
因みに思想信条が激突する場と言えば世界共通で首長なり議員なりの選挙になるわけですが
アメリカでの大統領選挙とかそういう話に限らず世界各国でSNSを通じて選挙活動がなされている中、そもそも思想信条的に対立する相手のメッセージに対して「主張に根拠が無い」とか「主張は本当だと立証できない」といった反論をぶつける手段にすらなってしまっているのを目にすることがあります。ただし、そもそものSNSへの投稿が本当に虚偽やなりすましでの批判や一種の褒め殺しになっていて、ある意味正しくコミュニティノートで指摘されるべきモノであったりする場合もあるようです。
それは本当に本当なのか、本当は本当じゃないのか。
最早禅問答の世界で、そんな魑魅魍魎が大手を振って跋扈する中で何を信じたらよいのかもよくわからなくなってるケースもあるようです。
みんな大変だ。
コミュニティノートの善は全能か
「人の基本の行動原理は善である」という前提で設計された仕組みだと思っています。
但し、個別のコミュニティノートは善なのか。
それは、誰のどういう立場に基づくものなのか。
誰にとって善なのか。
主旨は解るんです。そこは理解しているつもりです。
ただ、一度野に放った機能が思想どおりに機能するかどうかは別だという気はします。
リアルかネット上かを問わず他のどのようなコミュニティにも共通する話かもしれませんが、例えば今につながるSNSの世界でいうと非常に牧歌的だったころのTwitterやFacebookの今に至る変遷を知っている身としては、どうなんでしょうねって思うところはあります。
それでいうと厳密に言ってSNSなのかはともかく知る人ぞ知るTumblrがそもそも無法地帯だったのがここ数年色々あって逆に秩序が作り出されてきて別の意味で混乱してます。それでも「やっぱり今でもTumblrって落ち着くんですよね」とか意味不明な事を言って「何言ってんだこのジジイは」とか思われたりもしますが、それはまた別の話。
しかし、ほかに何か手段があるのかとか私如きが考えても答えなど出ないのですが、悩ましいなと思うくらいのことはできるかなと思っています。自分自身本当にそれ以上の事は何一つできないですが。