オルタナティブ・ブログ > THE SHOW MUST GO ON >

通信業界特殊偵察部隊のモノゴトの見方、見え方、考え方

PCにAI機能って、いる?

»

冷静に考えるとすっかり古い奴になってしまった私。もっとも「古い人間ほど新しいものを... 」とは鶴田浩二さんの「傷だらけの人生」の一節ですが、自分自身は昔から新しいとか古いとかあまり考えずにそのタイミングで自分に必要なモノは何かを考えながらいろんな物と接してきたつもりです。

ただし、たとえばいわゆるガジェット好きかと言われるとそうではない。
なにか新しい流行はこれだよという話に飛びつく事ってあまりない。
それは事実です。

時代が俺に追いついたぜ、という勝手な思い込み

でも「これ面白いやん」と手を染めた何かが数年後に「今いちばん新しいのはコレ!」とか言われるようになって「時代が俺に追いついたな」とか勝手に思ってたりすることはゼロではない...と自分では思っています。
例えばメインフレームの閉じた世界ではなくネットワーキングでしょとか言ってメインフレーマーの中の完全な傍流であったデータ通信の世界に足を踏み入れたのは忘れもしない1987年。

例えばヘッドマウントディスプレイを持ったWearable Computerのプロモーションに僅かばかりかかわったのは1999年から2000年にかけて。特殊用途はともかく、人体への影響がわからないからずっと出たり消えたりするよと言う話をしてたのですが、事実その後2010年代半ばまでは商用の機器は殆ど存在しなかったのが、今やいろんな形で復活してたりします。

いまだにメカニカルキーボード大好きなのは45年くらい前に親にねだって買ってもらったオリベッティ社のタイプライターが入口で、今でも明確な打鍵感が無いと物足りない人になってしまったのですが、ゲーミングキーボードの興隆から世の中的にどんどん機種が増えて、これこそまさに「時代が自分に追いついてきたな」とか勝手にニヤニヤしてたりします。

多分全然関係ないんですけれど。

自分にとっての「道具としてのPC」という位置づけ

因みにいわゆるPCが無いと困る人ではあるのですが、PCそのものには1980年代から既に個別の思い入れを全く持っていなくて、正直単なる道具としてしか接してこなかったという意識があります。

プロセッサやパーツには非常に詳しかった時期もありましたが自作が流行っていたころにも一切手を出さなかったし、OSが何だろうが、PCだろうが林檎だろうがUNIX/Linuxだろうが自分が使いたいことが出来れば何でもよかったし、今でも正直なんでもいいと思ってます。なにしろ座って使う分には外付けキーボードとトラックボールを付けちゃいますから本体は別に何でもいいし、メーカーごとの素敵に使いやすい機能とか殆ど興味ありませんでしたし、今でもシステムの管理上必要な機能以外はそうです。

必要なSoftwareが使えればOKだし、それが使えることが選択基準。たとえばOffice系のプログラムの場合、特にここ10年くらいの自宅PCだとパワポとか不要で文章が打てるソフトと表計算があれば基本用が足りています。書式に凝ることもなくなったので前者は気が付いたらテキストエディタのNotebook++で落ち着いてしまい、表計算はArrayformulaに心を打ち抜かれてGoogleスプレッドシートに完全に依存するようになりました。

なんだChromebookでも良くない?
多分正解だと思います。

ただChromebookの場合、OSの賞味期限があるのでちょっとどうかなとは思っています。
結果的にWindows10でも困っていないので使い続けてるのですが、それ以外には例えば10年以上前のWindows 97やWindows Vistaが動いていた古いPCにUbuntu入れてChromeブラウザが立ち上がれば大抵の用は足りるという、完全に時代に取り残された環境と個人的なニーズがあったりします。

全然新しいものを欲しがらない、単なる古い奴ですね。

第五世代コンピュータの亡霊

因みにそんな私と全然関係なく世の中はAIだ生成AIだと色々騒がれていて、1990年代末に第五世代コンピュータだLispだPrologだ手続き型言語だ疎結合や蜜結合のコネクションマシンだという波に乗って結構触ったけれど何もモノにならなかった黒歴史を思い出しつつ、2000年前半の数年間エンタープライズ・サーチのエンジンを使ったソリューションのプロモーションに携わった経験から「食わせたデータからしか結果が出ない物に何の夢を見るの?」とシニカルに世の中を見ているめちゃめちゃ嫌な奴だという自覚はあります。

そんな私だからこそ「PCにAIなんちゃら機能って、いる?何するの?」ってちょっと思ってたりします。

スマホやSmart SpeakerなどのいわゆるSmart Assistantであれば機能として実装されていると返事の精度が上がってくるのはわかるのですが、それをPCに実装する流れを見ても「文字ベースで打ち込んで何か結果を求める仕組みってどこまで必要?」って思うところがあります。

正確に言うと、そこで何をどう喋っているのか、何を探しているのか、何を結果として受け入れているのかというのは簡単に言うとパーソナライズされた広告の餌になったり、もっと深くは単なるブラウザでの行動トレースどころの話では無く例えばDeep Packet Inspectionと言われていた個人の行動トレースの非常に有益な濃密な情報を持ったソースとなるんですが、そうやって自分のニーズに合ったと言う風に分類される情報がとめどなくネットから自分のところに流れて来る状況を是とするのか、自分から情報を取りに行く事を是としそれらの技術の流れは見つつ時々使いつつ距離を置くか。

肩ひじ張らず時代に乗ろうよ、という話は百も承知ですが

別にそんなに肩に力を入れなくても良いという話は勿論正論だと思うのですが、身近なところだと何かをネットで検索したり買ったりした結果画面にそれらのお題の広告が溢れる状況を見て「自分に合った物って勝手に思いこまれてもなぁ」と思ってはいます。AIにイラスト書かせて何がおもしろいんだよとか妙に不機嫌になったりしています。

嫌な奴です。

更に怖いのは何らかの検索結果や、自動で流れて来るニュースを含むなんらかの情報が自分の行動の結果を元にしたフィルタを通ってくるところ。突き詰めれば自分の思想信条に合ったものしか見なくなる状況すら生まれるわけです。

私は嫌です。
個人的に絶対に嫌です。
そんな形で自分の主体性を失いたくない。

誰かが収集しソースデータとして食わせた「正しいかどうか関係なく数値化された結果として提示できるようにされた過去の世の中の大勢の動静」から「あなたの欲しいのはこれでしょ」と提示される内容だけに触れるような生活は嫌です。それが楽なのは百も承知ですけれど、「みんなが見てる今の流行りのコレをなんで知らないの?」とか言われても、あなたと私で目の前に流れて来るものが違うんですよっていう事実を知らずにいることは嫌なんです。

もちろんそこまで神経質に物事を考える必要は無いし、それが嫌ならネットを捨てて無人島へ行けと言われると「それは無理です。虫が怖いし」と腰砕けになるんですが、主体性を誰かに預けるような気がして、ちょっと腰が引けます。

PCにAI機能って、いる?
私にはわかりません。
そのうちわかるんだろうとは思いますが。

Comment(0)