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通信業界特殊偵察部隊のモノゴトの見方、見え方、考え方

共感モンスターという存在に時々出会う

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昨年の夏頃までに割とよく目にした記憶がある「言語化」というお話があります。

自分以外の人との関係性の中で自分が何をどう思っているのかを言葉あるいは文字にして伝える必要があるのは、SFやファタジーの世界でよく見るテレパシーによる意思疎通ができない現実世界に生きている人間の宿命なわけで、というかそもそも脳内でなにか考えている状態そのものが「動物的な勘」で体が反応する状態以外はすべて何らかの言語が使わているでしょと個人的には思っています。それは(が?)その人の使うネイティブな言語だと思っていて、その裏返しでネイティブではない言語を習得しようとしたり使おうとしたときに一旦自分の言語で考えて翻訳する、あるいは聞いた言葉を自分の言語に頭の中で翻訳して解釈するという流れがあるとなかなか先に進めないという話も昔からあるかと思います。
実際脳内言語が基本的に日本語な私は相当苦しみました。

ただし幸か不幸か英語に関しては働いている環境などのおかげもあって、ある時期からなにかのタイミングで脳内が英語で考えていることに気がつくことがあります。ただしそれ以外に日本語の中であっても標準語と関西弁(実は私にとってはこちらの方が体に染み付いている日本語)の切り替えが起きることがあって、たとえば眼の前にいる会話の相手が関西方面の出身の方 & その方が関西弁で喋っているという場だと意図せず自動で思考も喋りも関西弁に切り替わる事があります。それが1対1ではなく複数の会話相手がいる場であっても関西弁の方に向けての話のときだけ関西弁になることがあるという謎の行動を取ってしまうこともあって私が関西弁が本当のネイティブ言語だと知らいない方を驚かせることが今でもあるんですが、まぁそれは別の話。

なおこの話は言語化というよりは言語をどのように切り替えているかという話かつ非常に個人的な行動の例ではありますが、何れにせよ何かしら言葉なり文字なりにしないと他人との意思疎通ができないのが人間なわけですよね。でも...

ネットで見かけた「思考の言語化を求められるのを威圧と感じる」ケースがあるという件

実は元々自分自身の行動として「◯◯が素敵だから誰かとその情報を共有したい」という志向が非常に薄い人だという意識は持っています。お互いの価値観の共有が違いの認識を含めてできていて完全に信頼してる人であればぶっちゃけなんでも話をします。でもたとえば何かを買った話をする流れになった場合、基本的にはリアルだろうがネット上の話だろうが、それを買うに至った経緯は話しますが何を買ったかって実はどうでも良い話みたいになっちゃいますし、ましてや「買った方が良いよ」的な話はほぼしない人だと思ってます。

これは自分の育った環境や状況からくる経験との関係があって、乱暴に言うと「一定の価値観が共有されている場に後から入ったら当該コミュニティの外の考えや行動原理が一切許容されない場だった」とか「ここはビジネスライクに存在してるべきでありそれ以外の情報は氏素性含め一切触れないほうが良い」という状況が幼少期から何度もあったことによるものなんですが、実はこれが結果的に地域コミュニティの強いつながりというものに対して恐怖を感じる事にも繋がっていたりしています。まぁでもそれはまた別の話。

で、本論に戻って、実はこの話を改めて考える切っ掛けになったのはTogetterで見かけた 『本や漫画を読まない妹から「家で『○○が面白かった』と言うと瞬時に『どこが面白かった?』と聞かれるの、威圧されてるみたいでイヤ」と言われショックだった』 という一連のまとめ。

他者との意思疎通のなかで共通のなにかについてどう思っているかという意見を聞き、それに対して自分はこう思っているというところから進むコミュニケーションは当然あるんですが、問題はそれを聞き出すことをフックに同じ土俵にいることを確認して話で盛り上がろうとする人に対して軽い言い方をすると「私の勝手なんだからほっといてくれ」、強い言い方をすると「人の感情に土足で入ろうとするな」という意識を持ってしまうケースがあるという話です。

もちろん状況や聞き方そのものも千差万別だし私自身も例えば行動心理学といった分野の専門家でもなんでも無いですが、それでも心情的にわかる部分があります。そしてこの行動について、言語化の話とは別の次元でいきなりこういう聞き方をする人を個人的には共感モンスターの一形態と思ってます。


共感モンスターの一形態

お題は映画でも漫画でも音楽でも何でも良いのですが、それらはあくまで聞いてくる人が自分で得意なスタイルで踊れる土俵みたいな話の土台であって、これってどう思う?と聞いてくる時点で実はマウント取りに来てるんだけど本人は無自覚だったりするケースを知っています。

あとは相手の背景や趣味嗜好をあまり考えずに「これ良いでしょ」と熱心にいろんなものをオススメしてくれる人もいるんですが、これも本人は良く言えば善意なんですが殆どの場合無自覚なケースも知ってます。

ましてや言わせた感想を批評の対象にしてはいけないんですが仮に気持ちの中で「へぇそこを面白いと思うんだ」ってのは思っても良いけど、それを言語化して相手に伝える段階で「マウント取り合う事を楽しめる=共通の趣味として認識できる関係」あるいは「同じコミュニティーに属しているという共通認識がある関係」で無ければ相手には威圧感しか残らないし、それが繰り返されると喧嘩になるかそういう問いに答えなくなるし、自分からも言わなくなったりします。少なくとも私はそうですし、そういう経験がありましたし、比較的最近でも「その分野の話を俺にされても知らないし嫌いだし聞きたくないし」という感じで思い当たる話題があります。詳しく言うと語弊がありますが。

ということでこの手の話はいわゆる「言語化」云々以前に対人関係の距離感の問題だと思ってて、内面的に思っていることを言語化して言わせることとそれに対する直接の批評って要はいきなり他人の敷地に土足で上がり込もうとするように見えるんです。個人的には。

「相手に何を伝えるか」と「相手が何をどう受け取るか」の終わらないせめぎあい

誰かと話をするうえで最大の問題は「自分が伝えたいことが相手にどう受け取られるか」という部分だと思うんです。これが仕事上の話を含め感情を別にした純粋に事務的な話であれば必要なことを明確に伝えて終わりだと思ってますが、仮にそうであってもどうしてもどこかで「きちんと伝わるか」というところは考える必要があるわけです。もちろんそれが個人的な趣味や嗜好の話に踏み込む場合に聞こうとしてるのは相手の考え方自体なので、事務的に進めるものではないし、相手は自分と違う発想と知識と経験を持った別の人格だと言う部分をふっとばして「同じ状況を私と同じ感覚で捉えているんだ」と思ってしまうと関係性における距離感がおかしくなるんじゃないかと思うんです。

それを別の表現ですると私がTogetterで見たまとめのように「威圧感」となるんと思うんですけれど、その感覚それ自体を理解できない人や理解しない人に言語化して説明するのは大変なのはよく知っています。悪気が無いと言うにはちょっと一緒にいるのが辛すぎるケースも過去にはあって流石に疎遠になってしまいましたし、逆に言うと自分がそういう方向に理解されて距離を置かれたことがゼロではないのだろうなとも思ってはいますが。

それでも大事な言語化という行動

勉強としての読書感想文とか何らかの発表ってのが学校では必ず有るわけですが、言語表現の勉強として考えを文字や話し言葉にすること、そしてそれをもとに言語(たとえば日本語)での表現方法や文法的の基本を学ぶのは本当に大事だと思っています。これは絶対に大事。

そしてそれを踏まえて何かを誰かに伝えると言う事自体を否定してしまうと自分がSNSやブログなどでなにかを書く行為自体を否定してしまうので流石にそこまではできないのですが、

そしてその先には「自分が誰に何を伝えたいと思っているのか」という話で、もちろんそこには何らかの共感を得たいという部分は絶対にあると思うのですが、それを直接面前で言われるのと文章で間接的に伝えられることとの違いはあると思っていて、それを直接目の前で言われると「あぁ共感モンスターが現れた...」と思ってしまいます。

駄目ですね、ビビリは。

何かを誰かから受け取ることと誰かに伝えることに終わりはないはず

因みに相手の持つ対人関係での距離感を全く意に介さず、でも相手に全く違和感や不信感、不快感を与えずにスッと眼の前に現れて楽しく話ができてサッと消えるけれど誰に聞いても「あいつ良いやつ」という声が聞こえてきてくるような人を「ひとたらし」とか言ったりすると思ってます。ただしこれは特殊能力なので聞きかじって面白いと思ってもそれができる人の思考の背景や具体的なアプローチの方法を理解してないと単なる距離感のおかしい奴になるし、実際できる人はそれが出来るのを知ってるけどできる理由をそれこそ「言語化」して考えてないので多分伝えられないという難しさがあるんじゃないかと思っています。あまりに属人的な話なのでAIに移植できないかと思ったりもしますが、人間の行動を置き換えてどうするのよと壁にぶち当たってしまいます。多分意味がない話ですね。

いやしかし本当に対人関係の天才って居ますね。
単純に真似はできません。
でも実は私の身近にもなにこの人すごいと思う人が現実にいます。
お前には無理だろという話が人柄に直結するので身も蓋もないのですが。

で、それを踏まえつつ自分を振り返ると、以前に「人に何かを言語化および映像化して伝える」仕事をしていた期間... 過去の話ですが通算で20年位にやってたんですけど、その期間を通じてこれを結構真面目に考えていました。そしてある時点で一応自分なりの一定の理論は自分の中にできていて、それを「対人関係における壁理論」と呼んでいたのをふと思い出しました。
そういう部分では一応真面目に色々考えてはいました。
何しろ誰かにモノを伝えて次の行動に移ってもらうのが仕事でしたから。

言語化に対するアプローチと「(仮称)IT業界B2Bマーケティング考古学」

ただし自分としてもそれを明確に言語化してはいなかったんです。かなり感覚的な話。ただし一緒に動く皆さんに話をして共感や同意を得て同じ方向に進むことができたのは一度や二度ではないので、その気になれば言語化はできたんじゃないかとは思います。ただしそれぞれの時代、それぞれの環境、それぞれで背負った製品、それぞれの場での本質的な役割などが全部違うので、一概に言語化し辛いところがあるのは事実。

じゃぁそのエッセンスを抜いて行動原理みたいなものをまとめたら良かったのではないか?

多分そうですね。きっとそうだと思うんですが、そして一部書き残してる文章もあるんですが、今から全部まとめて書き出しても「(仮称)IT業界B2Bマーケティング考古学」みたいな雰囲気になりそうです。ただし最近は昔自分がその場にいた系の「そもそも昔がこうだったから今がこうなんですよ」系の話は残しておいたほうが良いかと思い始めたりしています。

主題は自分の見聞きしてきたことなので、当時その場を共有していなかった方に対して共感モンスター化することはありえません。その意味ではニュートラルに言語化できるかも知れません。
誰のために書くのかは良くわかりませんが。

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