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通信業界特殊偵察部隊のモノゴトの見方、見え方、考え方

これくらいできるでしょ?という思い込み

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良い悪いは別にして、誰しも能力に差はあります。持って生まれたものもあれば経験値が左右する種類のものもあります。それを自分を基準に考えるとどうしてもイライラしたり強く当たったりするわけですが、それでは組織運用は出来ない。そんなの当たり前でしょ?というのは尤もな話。基本中の基本ではあります。でも、その基本に忠実に行動するというのは中々難しいものでもあります。

それがたとえ仕事の場であっても、あるいは家庭や仕事を離れた何らかの活動の場でも。

 

自分が出来る事を他人が同じように出来るわけではない

自分の経験はあくまでも自分のものです。勿論正確的なことやら何やらも全部自分のもの。それを忘れると「これくらいのこと普通できるでしょ?」と一様に思い込むこと事態は非常に危険なこと。何かしら物事に対処する場合、だれしも自分の立場と経験と思い、思い入れ、あるいは思い込みをベースにするわけですが、残念ながら自分と同じ事を自分が期待する形で苦も無く達成できるチームなど基本的にありません。かならず何かしらの差分が生まれます。

ということで大事なのは、その差分を全体として許容できる範囲に収めるのが何かしらのチームを編成する場合に必要となるわけです。もっとも全体を指揮する立場の場合にはチーム全体の能力をある程度超えるような目標を設定する必要がある場合が往々にしてあるわけですが、チーム全体として目標を達成できるために必要な能力を持ったスタッフィングを行うか、何かしらの研修なり訓練なりを経て全体の底上げを図るかってのが当然必要になるわけです。

このアタリを実施するのが所謂「人を育てる組織」という事になるのかもしれません。

ただし、その「チーム」が当初から何かしらの物事のプロフェッショナルな集団として組織されるとしたら話は別です。その組織段階において全体に必要とされるスキルセットやら経験やらを考慮して編成されるわけで、極端な話、組織として人を育てるという発想自体が無い場合もありえるわけです。ただし、その場合は自分と同じような事が出来る人がいる必要は無くて、むしろ自分が出来る事がキッチリとできる組織であるほうが居心地が良いし、組織として必要な結果を出す事も出来るわけです。

これは「人を使う組織」という事になるのかもしれません。少々こじつけ気味ではありますが(笑)

 

他人が出来る事を自分が同じように出来るわけではない

ところで、自分自身が出来る事を他人が同じように出来るはずはないという話の裏側に、他人が出来る事を自分が同じようにできるわけが無いという考え方があります。このアタリの匙加減はその人その組織その目的などによって変わってきますが、自分と違う経験や能力を持った人と同じ事が出来るわけがなく、むしろその人たちと共同で物事に当たる事が非常に大事だという話。もちろnベースとしての基本的な知識レベルやら何やらが揃っていないと単なる烏合の衆となるわけで、そうなると何も出来ないんですが、他者が自分の果たせない役割を負いつつ全体として何らかの結果を出すということはどういう事なのか、ということは時々周囲を見渡して考えるべきだと思って居ます。

これは「自分が出来る事を他人が同じように出来るわけではない」という事の正に裏返しなのですが、完全に独立して何かをやっているのでなければ、単なる1人の趣味として何かをやってるのでなければ必ずそこに誰かが介在し、その人の結果なども踏まえつつ全体としての成果が上がる事っていうのを忘れちゃいけないはずなんです。

ただ、往々にしてその部分を忘れがちです。(多分に自戒の念が入りますが)

別に自分に対して「結局俺は何も出来ないんだよ」と常に悲観する必要は有りませんが、例えば自分の前工程で誰かが何かをやり、自分の後工程に誰かが何かをやる事によって組織が回るという事を意識し続ける事は大事だと思うんです。

 

自分と他人は常に同じことを考えている訳では無い

氏素性、経験、思考、理解、価値観その他諸々、自分と同じものを持ってる人がいるとすればSFのクローンの世界の話です。だからこその多様性があるわけですが、どうしても物事を自分の物差しだけで判断しがちになるのは有る意味仕方の無い事なのかもしれません。でも、自分の物差しを他者に対して適用して云々という判断を下すという日常の行為のなかで「自分の物差し」をどこまで強く信じるのかが問題。

尤も、これが余りにフラフラしていると主体性の無さという評価になるでしょうし、逆に余りに強固であると強情あるいは柔軟性が無いという評価になるわけですが、特定のコミュニティ、たとえば家庭、職場、地域、国などの単位で有る一定のコンセンサスの元に形成される一定のブレ幅に収まっていればそれなりの評価を得る事もできる。でも、その単位の外からだと理解不能な判断軸を持っていると判断される事も往々にしてあるわけです。

いわば、価値判断の相対性の問題、でしょうか。

で、たとえば物事に対する評価について、当事者だからこそ見えるもの、外野だから見えるもの、全く利害関係の無いところにいるから見えることなど色々な立場の見方が有るわけです。更にはいろんな意味での発言力や伝播力の問題で多数意見と目されるような評価を得るものもあるわけですが、それが最終的に当事者から見ると「何も判っていないのに何を訳のわからんことを言ってるんだよ、このボケ」みたいな事になることもよくある話。

もちろん、そういう見解の相違が無い社会や関係というのは全体主義的であるとも言えるわけで、それはそれで不気味ではありますが、実はひょっとするとそういう社会の中で安定していればその方が楽なんだろうなと思えたりするのもわかるような気がしますし・・・ とにかく物事は多様な訳です。

 

何かしらを達成するために今一度思い直すべき事、そして「俺様スタンダード」

私も含めて人間誰しも自分が知っている事や理解している事を物事の判断基準とします。それは当たり前。ただし私の場合、その理解の外を全て排除するようになるのは別の次元の話だと思っています。

  • 自分はその事象の当事者ではないのに、自分の知ってる情報だけで当事者を断罪する行為
  • 自分の思っていることと対立する意見を持ってるからと排除しようとする行為
  • 自分の主義主張と異なる意見の存在自体を拒否するような行為
  • 対立意見として議論の対象とする以前に対立する存在を否定すべき存在として対処しようとする行為

難しい事を言い出すとキリがないわけです。でも、これは私自身常々言い続けていますし、自分でも常に思っているのですが、対立する意見とは戦うべきですが最初から意見が対立する相手を否定して物事に当たる事というのは厳として慎むべき行為だと思って居ます。それでは何も生まれませんし、だれも成長できません。別に無条件に肯定する必要はないんですが、一言目から否定で入ると何も先に進まない。相手がそういう意見を持っているという事自体は肯定し、意見自体に対しては議論するという立場が大事だと思うんですよ。

もちろん、普段からそんな事ばかり悶々と考えている訳ではないんですが、でも、たとえばソーシャルな何かの世界で「既存の大マスコミに物申す」という活動があったり、あるいはソーシャルな何かなら新しい事が実現できるんだぜ論を頻繁に見かけるにつれ、実はそれら全体が二項対立の構図を常に必要としていて、既存勢力にたいする対抗勢力としての行動という図式で自分を表現する事が無くはないよなと思う事が、私としてはちょっと増えてきたなという気がしてるんです。

もちろん、それ自体を否定することは無いんですが、でもね、って思う事があるのは事実。だって、現在対抗すべき勢力と目されるそれ自体は嘗て別の立場で何かに対抗して成立し、生き残ってきたものだったりすることもあるわけで。

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