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通信業界特殊偵察部隊のモノゴトの見方、見え方、考え方

たとえばTwitterのReplyとRTではまりこめるアドベンチャーゲーム、関係の可視化、そして何かの監視下におかれているんだよという意識

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ソーシャルな何かの世界でこんな風に活動しようぜとか、あるいはビジネスにこう生かそうぜなどといった議論が相変わらず盛んな中、それらの議論をぼんやりと眺めながらTwitterやFacebook、あるはTumblrなどの世界をフラフラと泳いでいる私。もちろんそこでゴチャゴチャと何か打ち込んでいる以上は「何かを発信し続けている」人なのかもしれませんが、元々はその「発信する」という表現に実は嫌悪感に近い感情を持っていたりします。

確かに多分何かを「発信」してるんだとは思います。日本語としての意味は多分間違っていない。でもなんだかちょっと違和感を感じるんです。その「発信する」という表現には。

 

そもそもは覗き見なんだからさ

別にどんなサービスでも良いのですが、たとえば自分の直接の友人や何らかの繋がりがある人との話というのはその人(もしくはその人たち)に伝われば良いわけで、それを公開の場でやってるのは単に「誰か知らない人に見られても良い程度の公開チャットである」論というのを常々主張しています。その対極にあるのが「自分はこんな有益な情報を持っている、あるいは知ったので、それを是非とも広く知らしめなければならぬのだ」系の動き。もちろんそんな動きをする事が無いよと言い切ると日々ブログを書いていたりする自分の主体性を否定してしまうという自爆行為になるわけですが、そのあたりの方向性というのを場と状況によって使い分けているのが私の姿勢かもしれません。

事実、ブログ以外のいわゆる「ソーシャルな何か」の世界では腹が減ったとか眠いだとか、修行が足りませんから腕立て伏せ10回しなさいとか、その背景を共有していない方から見ると意味の無い事を連発するわけですが、実は何となく知人にむけての生存確認だったり、あるいは何かしらのメッセージだったりする事が結構あったりします。その意味では意味が無いという意味では無い、という意味不明の説明をする事もできます。

もちろんこれは私自身の「ソーシャルな何か」に対する接し方の話なので、それの功罪とか良し悪しを議論されても困るんですが、とりあえず誰に見られてもそれほど御幣のあるような突っ込んだ話はあまりしないようにしているというのは事実。

で、自分がそんな姿勢ですから他の方のTwitterやFacebook等などにおける諸々の発言がその人の全てを体現してるわけではないと一種の性善説というかニュートラルな立ち位置を持っているつもりなんですが、中にはそこでの発言に人生をかけてるんじゃないかと思われるほどの力の入った方も偶に見かけます。もちろん、それはその方の「ソーシャルな何か」への向き合い方なんで、その功罪とか良し悪しを議論するべき物ではないよね、と思う程度の分別は持っています。

 

とはいえいろんな方の発言を追いかけるのは面白いわけで

Facebookの場合には誰かの発言から紐づいたスレッドの形で一連の話が見えるんですが、逆に言うとその中で議論が終わるのでそれほど議論が発展する事は無いような印象を持っています。かたやTwitterだとスレッドも何も無いわけですし、ハッシュタグをつけて居なければどれが一連の話の流れかさっぱり判らないわけですし、その先にある議論の分岐を追いかけることも至難の業であるのは既に多くの人が気付いている話。

だからこそ、一度流れてしまった風説や誹謗中傷を打ち消すのは事実上困難であるということにも繋がるわけですが、それを逆に取ると、あるひとつの話から何がどう分岐していって、どこで話がねじれて、それこそどこで議論完全に逆になってしまったのか、何故ここでその人が介入してきたのかとかと言った部分を追いかける楽しみが出来たりします。

 

それがソーシャルな何かの世界で楽しめるアドベンチャーゲーム

もちろん世の中には人の繋がりを可視化するサービスやツールが溢れています。でもそれぞれのサービス観測範囲の違いからちょっと違うんじゃないのかなと思えるようなものが出力されてくるのもよくある話。ネット上で遊ぶ大人としてはその具合自体を愉しむくらいの余裕があれば明るいネット生活を送れるわけですが、じゃぁ実際のところってどうなの?という疑問を念頭に置きつつ、誰が誰とどんな話をしてるのか、あるいは誰の発言をRTしてるのかなんてのを追いかけてみるのは1つの「遊び」かも知れないなと思っています。

で、たとえば私の場合、時間があるときにはReplyやRTからドンドンと色んな人を辿ってゆくってのを面白がってやってみたりします。もちろん一連の発言やら何やらをまとめておくサイトとかもあったりしますが、たとえば軸はそこにあってもそこに出入りしてる人のところに飛んで、そこから「!」と思った人のところに飛んで、更に更に、という調子。それで最後に最初の人に戻ってくると、どこかの誰かが言った「友達を辿るとテロ組織に繋がる」みたいな事になるのかもしれませんが、今のところそういうところに繋がった経験は残念ながらありません。ただシステム的に可視化された情報よりも自分の目で追いかける情報の方が(誰かが担保する正確さは別にして)面白いものです。

 

因みに私ごときがやってることなんて誰かがやってると考えるべきなのは一応念頭においておくべきです

世の中、いわゆる自分の観測範囲が全てではないわけです。世に出ているというか、目に触れる何らかの仕組みやら何やらだけで物事が済んでいるわけではありません。そして、たとえば「ソーシャルな何か」で流れる情報を色んな角度から眺め、調べ、利用しようとする人はいろいろです。たとえば私のアドベンチャーゲームの話は単なる遊びですが、色んな人の情報を集める必要がある立場の何かにとって非常に低コストかつ簡単に「誰かの情報」を集める事ができる、非常に便利な世界になっているというコトを忘れるべきでは有りません。

たとえばイギリスでは電話の盗聴という非常に古典的な情報収集手段が用いられたらしいということで新聞社が1つ吹っ飛ぶとかいう事態が起きているわけですが、それはそれで何かしら意図があって行われていて、それが色んな事情で発覚したと思うべき事実です。じゃぁそんなのが日常どこにでもあるのかって?いや、そんな事は知りません。ただ、何かについて何としてでも情報を集めたい立場が色んな手段を講じるのを防ぐ事は簡単ではありません。ましてや非常に簡単に色んな情報を拾える、たとえば「ソーシャルな何か」の世界ではどうなんだろうねぇ、と考える事は大事です。

もちろんそこでは何も公開するなとか使うなとかそんな事は言いませんが、不確定要素としてのリスクを意識し続けるというコトは簡単ではありません。でも、安全は空気じゃないんだよ、という意識を常に持っている必要はあります。

 

因みにそんな話をするって、お前は何か知ってるのかって?

いや、だから何も知りませんって。知ってたらそんな話しないでしょ。でも仕組みとして可能なものは何処にでもあるし、それは国内に限るなんて誰も言ってないし、必要性があれば国家として動くだけの諸々の裏づけを持ってるところもあるというコトを忘れるべきでは有りません。それは良し悪しの話ではない。自分の、あるいは日本の価値観で判断しても何も意味が無いレベルのモノもあるんだし。

と言う事で、普段接しているのは自分の信じてるルールで物事が動くわけじゃない世界なんだよ、ってことは時々思い出すべきですね。

 

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