立場と氏素性が違えば同じ言葉の意味も違うことを理解するのがまず第一
誰しも何かしらの立場を持ってるわけです。なんとなく「一般消費者」だったり「政治家」だったり「技術の専門家」だったり、あるいは「報道関係者」だったり。こと日本においてはそれらのほぼ全ての人が同じ日本語を使っているわけですが、そこには業界や特定の状況でしか知られていない言い回しや意味合いを持った言葉が存在しているのは普通の事。これは方言といった要素とは更に別だと思ってるんですが、因みに方言というものを加味すると実は結構面倒くさい事が日常茶飯事として起きるわけです。
それでも会話を成立させ、全体として機能してゆく必要があるのが「社会」というもののひとつの理解の仕方ではないかと思ったりするんですが・・・
「それ、ほっといて」
ある意味非常に有名な例。文脈にもよりますが、元々関西の出の私の場合、たとえば何かを指差してこういわれると「あ~、棄てて良いのね?」と判るわけですが、そういう言い回しを知らないと「あ、さわっちゃいけないんだ」という理解をしちゃったりするわけです。「ほかす」とか言うともっと判らなくなると思うのですが、これは正に関西弁の方言としての表現。
これはあくまでも例の一つ。よくよく考えると、基本的に誰しも地方によって言い回しのちがう「方言」の存在は知っているわけです。ただ同じ地域にずっといると実は自分が他の地域から見たときに圧倒的に「訛っている」というコトを理解できず、たとえばテレビで見ている「標準語としての日本語」と全く同じレベルで誰にも通じる言葉を喋っているという意識をもったりする事が実際にあったりします。
ただ、実際には自分は「xx弁」を喋っているという意識を持つ事も勿論普通にあるわけですが、それを意識しつつ「標準語」を喋っているつもりでも、細かい単語やその解釈のレベルで微妙に方言が混じってしまい、それを本人が全然気づかずに別の地方出身者などから大笑いされる経験っていうのは結構多くの方が持っていると思います。
自分の例で言うと、小学校半ばまでは兵庫県の西宮で過ごし、小学校後半から中学校1年にかけて転勤で山口県は下関に住み、その後更に転勤先の明石に移った頃。自分的には関西弁は自分の言葉であり、それを思い出すだけで何の問題も無かったはずなんですが、うっかり「穴が開く」というのを「穴がほげる」と下関弁で喋ってしまい大笑いされ、自分は見事に凹んだという経験をもっていたりします。このときのショックといったらもう・・・ いや、方言をバカにされたとかではなく、関西弁を喋るのに努力が必要になっていた自分に対するショックだったんですけどね。
業界が違えば当然表現のニュアンスが変わってくる事を理解しているかどうか
IT系企業の人間が良く喋る言い回しとか、通信系企業の人間が良く使う言い回しとかっていうのは両方の業界を経験した自分は自分としてよく判ります。マーケティング系の人間の表現、コンサル系の人の表現、テレビ系の人、紙媒体の人、更には例えば技術系にしても電気系と機械系の人ではやっぱり違いますし、土木や建築となるとまた違う。政治家も違うよね見たいな話をすると面倒くさい話になりますが、やはりそこはそことして独特のモノがあるのは事実。
それらの表現はそれぞれの世界の中で色々と淘汰されたり必要だからと残っていたり、更には変遷を繰り返していたりするわけで、それ自体が悪い事でも何でもない。実際に閉じた世界の中で通じる用語が無いと物事が進まないのはよくある話ですし、そういった表現が通じないと「あ~、素人さんね?」なんて評価も出たりするわけですが、何れにせよ例えそれが同じ「日本語」の同じような言い回しであっても理解のされ方が変わるのは当たり前にあります。
ただ、実はその先に「じゃぁそれを誰にもわかるように言い換えることが出来るか、あるいはニュアンスを間違いなく翻訳して伝えることができるか」という大きな壁に突き当たる事があります。マーケティングコミュニケーションやPRを担当している方であれば幾らでも自分の経験を喋る事ができるはず。でも、それは翻訳して伝えるという職務を持っているからこその話。何かの都合で急に人前に、それも自分の専門領域の事を「素人」に正しく伝えるべく連れ出された人が出来るわけがありません。
でも専門家として理解している正しい情報を判りやすく説明するのが勤めじゃないのかって?
そんなアホな事はありません。そもそもある特定の分野の専門家はその「ある特定の分野の専門家」であって、多くの場合それを専門としない人への説明をする訓練すら受けていない事が多いと思います。もちろん人による話であって、ある分野に非常に長けているのに加えてそれを専門としていない誰かに説明したり説得したりというコトが非常に得意な方もいらっしゃいます。でもそういう人がそれほど多くいるとは思えませんし、殆どの場合、そのための訓練すら受けていない。
実はこれは経営の専門家であるべき企業のトップマネジメントあたりにも通じる話だと思っていて、だからこそスティーブジョブス氏のプレゼンテーションは凄いぜみたいな話になると思っています。だって、同じような吸引力とプレゼンテーションスキルがある経営者が少ないから目立つわけで、そういうモノを誰もが持ってるんだったら話にすらならないでしょうから。
とまぁこれは極論ですが、何れにせよ、専門家が一般向けに説明することに非常に困難を伴うことは実は普通であり、専門家の話は聞く側がキチンと基礎知識を持っていないと理解し辛いものであるという前提を持つべきだと私は思っています。
でもだれしも専門知識をもって誰かの話に触れたりすることは出来ないでしょう?そりゃそうです
だから誰かが翻訳する必要があるわけです。一般向けであればそれはメディアの役割だと私は思っています。そもそも「媒介するから媒体である」という理解をメディアに対してもっているという変な私だからそんな風に思うのかもしれませんが、何れにせよ直接自分が会う事が出来ない人の話や状況の話、色んな場所や事象の解説などはメディアを通じてしか得る事ができない。
ソーシャルな何かでできるでしょって?いや、そんなの無理です。だって誰が正しく伝えているのか判らないですから。だからこそ実はメディアはブランドであり、記名記事もブランドであると思っているのですが、最終的に内容が正しいかどうかは別として、ブランドとして信用できると自分が思うソースからの情報であれば、聞く耳を持てると思っています。
でもたとえば直接話を伺う状況であればどうなるんだ?
そこはある程度基礎的な知識をもって専門家と対峙する必要があるし、わからないニュアンスについてはキチンと確認する必要があると思っています。メディアの記者の方がする取材と同じですね。これが御進講いただけるような立場であれば解説のための誰かを横にはべらせて翻訳作業的に補足説明を受ける事も出来るでしょうけど、実はそれなりの立場になると「何言ってるのか全く判らないんだよ」とは言い辛いよねと自分の立場のお気楽さに安心したり。
何れにせよ、専門知識を必要とするとき、それがキチンと共通の理解の元に話が進んでいるかどうか、そもそも自分がその「専門知識」を正しく理解しているのかどうかと言うところを常に意識して専門家と対峙する必要があると思っています。
たとえば技術的な話を判りやすく伝えるという役割の重要性
ニュース解説などで誰にもわかりやすいように背景と経緯を説明することで有名になった池上彰さんは正にその良い例だと思います。この池上さんの例でもよく判るのが、実は事象に直接携わる専門性と、それを人に伝える専門性というのは別であるという基本的な事実。私自身、先進技術のプレゼンテーションの専門家、そしてマーケティングコミュニケーションの専門家という分野に長く携わった経験からも、この「誰かに何かを伝えるという専門性」については強く感じています。
因みに3.11の震災以降、そのあたりのスキルを持った人間がもっと積極的に諸々をサポートできる体制、あるいはそういう人間を積極的に必要なポストに充てる仕組みが各所にあればちょっと違った風に物事が動いたんじゃないかなぁと思ったりします。私ですら「まったくもう・・・ 私に声をかけてくれれば色々と動くのに」とか思ってしまいます。いや、半分くらい冗談ですが(笑)