当事者意識の持ち方、持たされ方、そして当事者能力
誰しも何かしら果たすべき役割があるんだと思ってる私ですが、その役割についてどこまで当事者意識を持ってるかっていうのはとても大事だよねってことくらいは理解しています。そこでたとえば上位マネジメントの動機付けによって大きく変わってくるよねとか、あるいは自分自身でどこまで意識を持てるかとか、まぁ色々あるわけです。
ただ間違いないのは、物事に接するうえで当事者意識を持っているかどうかっていうのは結果を大きく左右することがあるという事実。
自分から手を挙げたか、誰かに命じられたか
これは当事者意識の根本を左右する部分なわけで、当事者意識自体が自分の中から生まれるのか、あるいはそれを持つことから始めるのかが大きな違いだと思っています。ここはきれいごとを言っても仕方ないと思う部分で、誰かに命じられた何かについて自分のキモチとして最初から当事者意識を持つことができるとしたら私は素直に尊敬します。ワタシにはできません。そんなに器用じゃない。
あ、因みに当事者意識の有無と、与えられた役割をキチンと果たす事とは別の話だと思っています。仕事ですからやることはやる。それはそうですけどね。
ほんでもってそのあたりのコントロールっていうのが組織のマネジメントの基本の一つであると思ってるのですが、たまにそのあたりを全くネグっていきなり「行け、やれ」系で来る方の存在も知っています。なかなか難しい場になる事が多いですけどね。
そして当事者能力
これは実は深い問題。でも前向きなキモチだけでは何ともならない事が多いのも事実。逆に言うと、キモチだけで頑張って大変な事になるケースが多々ある事実。
いや、何を指しているとかそういう話じゃないくてもう少し広い話なんですが、目の前にある事象を元に全体を理解しようとする事や、当座の目標に固執するとちょっと大変だよなと思う事ってあるわけで、それって本当にそれを担う能力があるのかな?と自分の事を棚に上げて思ったり。
当事者能力を資質と置き換えてしまうとかなりの部分身も蓋も無くなるわけですが、ソーシャルな何かを中心に3.11以降色んな事が見えてきたし、見えてしまったし、多分これからもまた見えることになるんだろうなと思うんです。
そういう意味でも3.11という日付は非常に象徴的なモノになるんじゃないかと思っています。