荒れるApp Storeのレビュー、そしてTwitter上で展開される不毛な「議論」に見るソーシャルと呼ばれるものの限界についてちょっと考えてみる
グルメ系サイトなどでは以前から話題になっていた古い情報やネガティブコメントへの対応の話。もちろんそれだけではなく「荒れる」という状況はパソコン通信と呼ばれた時代から存在していたわけですが、いろんな意味で裾野が広がり、かつ敷居が低くなることによってどこにでも発生する可能性が出てきているわけです。
たとえばAppleのApp Storeでのコメントの是非を巡っても今正に起きているわけで・・・
その場は誰のモノか、誰が管理するのか、そしてその権限はどこまで及ぶのか
記入されたものについては完全に記入者が特定できる「記名コメント」で無い場合には、どうしても色んなモノが付いてきてしまいます。コメントがガンガン入ること自体は悪いコトでは無いと思いますが、そのコメント欄で流れてゆくべき情報とは異なるものが流入してくると、ちょっと面倒臭いことになるかなとは思うんですね。
ただ、そのコメント欄自体が、たとえば制作者の自分のWebサイトなどであればコントロールが効くわけですが、それがパブリックな場である場合、そしてそこに記入されたコメント自体がどういうものであるか、たとえば荒らし認定を誰がするのかという各論に踏み込み始めると更に面倒くさい事が起きるのは、過去のいろんな例を見ても明らかな訳です。
たとえばこの例で言うとApple社が管理する場での話ですから、Apple社として対応する方法も無くは無いとは思いますが、いずれにせよ判断基準が明確でないと更に揉め事になる可能性もあるわけで・・・
とかく、社会というものは難しいものです。
で、同じような流れをいわゆるSNSの世界に拡張してみた場合
たとえばTwitter上で自分の気に入らない、自分が信じている動きと違う事をしている、あるいは何かしら対立する意見をもったアカウントや特定個人に対して意見し、それがエスカレートして(傍から見ても)喧嘩を売っている状態の話の流れを見る事があります。
ユーザーが増えてくれば当然いろんな人が出てくるわけで、完全に管理状態においていない限りそのような動きを封じる事は不可能です。そもそもこれもどこで線を引くかっていうのが問題で、論調や論旨自体が個人の主観に強く依存しますから、一概に線は引けない。
いずれにせよ、爆発的普及の後の段階に既に至っていると思われるTwitterの世界だと、そのあたりの流れを見かけて離れてゆくユーザーが続出してもおかしくありませんし、そもそも世の中はTwitterを中心に回っているわけでもない。嫌になった人や飽きちゃった人は当然どこかに流れてゆくんだろうなとは思います。
ソーシャルメディアというモノの自分の中での立ち位置
かく言う私自身も相変わらずTwitterが止まったりすると呼吸ができなくなるなどとわけの判らんことを嘯いたりはしますが、その実かつてはまり込んだ後に冷静になって一時期事実上封印していたTumblrに回帰したり、ちょっとだけFacebookを覗き込んだりと、微妙な動きはしているわけです。
ただ、私の場合にはTwitterなりFacebookなり、あるいはLinkedInなりで新しい友達を探すという行為を殆どしないし、そもそもそういう方向での期待を一切持っていないので、自分の知り合いクラスターと一緒に何となく流れてゆく気はします。
で、そんな人なんで、誰かに喧嘩を売られたり、あるいは売るというコトも無いんですが、そういう風景を見ると「そろそろTwitterもアレかもな」的なところを考えたりするんですね。その意味では所謂ソーシャルメディアという場を自分なりに使ってるだけで、その場をもっと広く使うみたいな話、あるいはその場で何かしてやろうって思うことは無いんですね。自分自身としては。
あ、もちろん、仕事上とかで何か必要性があればその方向で物事は考えますけれど、自分自身の動きと仕事上の位置づけってのは随分と温度差があるかもしれません。
外国籍のサービスで、そこには日本的なルールは無いという「社会」
もちろん日本国籍のサービスってのは一杯あります。私自身がアカウントを持ってるものも幾つかありますが、なんだかそれらって面白くないんですね。規定がしっかりしてて、それなりにキチンと運用されているところってのはもちろんあるんですが、大抵の場合、私的にはあまり面白く無い。それよりも、かなり無法地帯に近いけれど何となくそこでの棲み方が判ってしまえば楽じゃん、みたいに思えるところの方が落ち着きます。
ただ、たとえば非常によく管理されたところからそういう場所に来ると、大抵の場合、まずは戸惑いから始まり、何かしらエライ目にあったりそういう流れを目にしたりして離れてゆくっていうコトが結構ある気がします。
そんななか、経緯やら賛否両論やらはあるかとは思いますが、Facebookが米国籍のサービスであるにも関わらず日本国内でもそれなりにユーザーを急激に伸ばしている(らしい)事実は大したものだとは思います。もちろんこれはこれでアリだし、キチンとマネージされたサービスという見せ方自体も間違っていないと思うんです。今の時点ではそれほど炎上する事も無いようですし。あ、もちろん今後はわかりませんけどね。
と、ぐるっとまわって何が言いたかったかと言うと
きちんとマネージされたところもあるし、何かしらの自由度と引き換えにそれなりに無法地帯と化す危険性があるところもある。物理的な国や地域などに縛られない別の世界ですから、そららが並存するのが所謂ネット上の社会だとは思います。
かたや実社会っていうのはいろんなシガラミが物理的にあるし、自分自身はそれらを管理状態に置く事も難しい。何しろ自分自身が社会ではなく、社会のひとつの構成要素でしかないわけですから。その意味では一種の逃避先としてSNSの世界を捉える向きがあっても決して不思議ではないと思います。
- じゃぁ、それらが悪い事?違うと思います。
- でも、無法地帯になるって悪い事?それも違うと思います。
- でも基本的ルールってあるでしょって?それが無い社会もアルという事をまず認めてみるってのはひとつの理解だと思います。
元々他人は自分と違う背景や思想、そして意見を持っています。それをまず認めることっていうところからスタートできないと、結局のところSNSの世界って単に流行のところに人が集まって、そのうち飽きてどこかに行っちゃうっていう繰り返しになってゆくんじゃないのかな?とか思うんです。
でも、それ以上のモノを持てれば、たとえば共感できる何かとか、共有できる何かとか・・・
ってことで、そのあたりで安心できる、ある程度閉じたコミュニティが出来るわけなんでしょうね。で、多分それがSNSの本質のひとつだとは思うんです。もちろん世の中の6億人全員と友達になるぞ的な人も居るでしょうけど、それもひとつの価値観。
ってことで、SNSってのは多様な価値観の存在を改めて認識し、それを受け入れるための壮大な実験室なんじゃないかな?と思ったり。
あ、これは私の価値観の持ち方なんですけどね。