需要におうじて供給があり、その逆もあるのが経済行動の基本であるということは忘れてはいけないという話
経済学、特に近代資本主義経済学の基本としての需要と供給のバランスの話は、何かしら経済学をかじったことがある方なら一度は目にしたことがあるはず。重要があるから供給があり、そこに当然対価が発生するわけで、そしてその権利自体がさらに売買の対象となるのは誰も止めることはできません。それが国内で取引が禁止されていても、海外で取引する市場が成立している場合も多々あるわけですが、禁止とは言わないまでも国内では取引自体が微妙なモノってのは一杯あってですね・・・
たとえば先週こんな話題も出ているわけですが
いわゆるCO2排出権取引の場ですね。それって良いことなの?みたいな議論が一部にあるのは重々承知なわけですが、その権利を求める人がいて、かたや諸般の事情でその権利を売って現金を手にしたい、あるいは使いきれない分を現金化したいなどの人たちの間での取引を仲介するわけです。
価値があるものと誰かが判断すると、それに価格が付く訳です。判り易くいえば何でも鑑定団と同じで、買う人がいれば価格が付きます。買う人がいなければどんなに素晴らしいモノでも価格がつかない。そして買う人と売る人がいるのであれば、その売買の権利自体も取引の対象になるという流れもあるわけで、これが江戸時代の日本で生まれた米の先物取引から始まるいわゆるデリバティブ取引の流れですね。
で、このようなデリバティブと呼ばれる種類の取引については信じられないほど多くのモノが存在しているのですが、それが良い悪いという議論はさておき、とにかく需要があるから供給があり、そこに価格がつくという構造は経済活動の流れとしては全くもって真っ当な流れであるわけです。そこに日本人的な情緒なんてありません。それがグローバルな経済の姿なわけです。
なんてことを考えると、多分たとえばウィッフィーとかなんてあっという間に取引対象になるよね?とか思うわけで
まぁ実際にそれを預ける銀行のような機能を持った企業(というかWebSite)もあるようですし、そこでは取引と貯蓄が可能になっているらしい。そう。これは自分で活動して云々なんて可愛い話は既にどうでもよくて、それ自体が取引対象になってるわけです。誰かがそれをある物事に対する物差しとして見てくれるのであれば、それを貯める=入手する方法について色んなバリエーションが考えられる訳で、実際に考えている人がいる訳で、そしてその取引の場を仲介する人がいる訳で・・・
至極まっとうな経済活動が既に始まっているようなのですが、「そんなのおかしいよ」という話も当然のように聞こえてきそうです。でも、それが商売になるなら、それに対価を払う人がいるのであれば当然誰かが手をだしますよ~っていう、グローバル経済の一端がここに垣間見えたりするわけですね。
まぁ、私自身は物理取引に先立つ価値感共有&贈与系論理経済学(みたいなもの?)の存在を信じることができないというダメな経済学部卒の男なので、それこそウィッフィーの件のような相互に軸が異なるはずの”価値観”の交換を基に成立する経済サイクルってのが未だに理解できずに苦しんでいるのでいたりはします。ま、だから何だという話ですが。