あの夏の思い出 ~ 番長!遊んで!
ばんちょ~の命によりエントリーを上奏。お題は「あの夏の思い出」。夏といっても、随分と数多くの夏をすごしてきましたからねぇ。
そもそも生まれが8月
さすがに自分では覚えてませんが、親の話を信じるとワタシが生まれたのは8月。星座は獅子座。ワタシ自身が親にとっての夏の思い出みたいなもんかもしれませんが、実は父親はワタシが生まれたとき、友人と大山(鳥取ですね)に登山に行ってる最中だったらしく、里帰り出産をした母親からは後で相当言われたらしいのですが、とりあえず無事にこの歳まで生きています。
そもそも水泳部
実は現役は中学のときだけで、高校のときは中学の水泳部に教えに行ってたり、大学のときは市営の屋内プールで年中バイトしていたりと、就職するまではずっと絡んでいました。ただ、一般的には水泳部といえば夏。屋根の無い学校のプールでひと夏過ごせば、笑って歯が見えないと前を向いているのか後ろを向いてるのか判らないほど焼ける訳で、今なら「紫外線が・・・」となりますが、その当時はそんなのも無く、また体質的に(少なくとも当時は)人の三倍早く日焼けし、人の三倍日焼けが長持ちする状態でしたので、存在自体が常に夏、見たいな男でした。
そもそも山下達郎と大滝詠一、そしてカシオペア
これは大学の頃。無茶苦茶ハマリました。時々親の車を借りて乗ってたりしたのですが、いつもカーステレオで聞いていたのは山下達郎、大滝詠一、そしてカシオペア。何度か友人を乗せていたら、いつの間にか「お前の顔を見ると山下達郎の曲が浮かぶ」といわれるほど立派に成長しました。因みに時代的にはサザンオールスターズ全盛期。湘南がどうのこうのという歌が巷に溢れていましたが、ワタシは関西人。神戸は須磨区の実家から車で15分も走れば須磨の海水浴場や垂水、塩屋あたりの海岸線です。「湘南がなんやて?俺には須磨がある!」と豪語していた、あの夏が懐かしい。
でも、「あの夏」といわれると・・・?
これが就職して、更に結婚した直後の1988年の夏の出来ごと。
実はこの時、生まれて始めての海外出張に行くチャンスに恵まれました。三週間、フランスはニースにあった当時の勤務していたIBMのラゴード研究所に併設されていたデモセンターへの丁稚奉公。「バカンスなんだから誰もいないよ~」と言われても「今じゃないと諸々間に合わないんだから」と色んな人が暴れて、結局行くことに。
で、最初は先輩と二人で行くはずだったのですが・・・ 急に予算がカットされて一人しか行けなくなりました。出発の一週間前に上司から呼ばれて「諸般の事情で、一人で行ってね♪」。目の前が真っ暗です。
「一人で海外なんて行った事無いし」
「フランス語なんてボンジュール位しか知らんし (第2外国語はスペイン語でした)」
「1フランって一体何円なんだ?」
「ニースに行ったら米も食えるかどうか判らんぞ」
「タクシーに乗ったらどうやって行き先を告げれば良いんだよ?」
などなど・・・
もうパニックです。それでもバタバタと準備を進め、成田でカミさんに見送られつつ・・・ 当時は出国審査の手前に下りのエスカレーターがあり、見送りはその手前まででした。不安な顔をしつつ見送るカミさんににこやかに手を振りながら・・・足がガクガク震えていたのを今でも覚えています。
結果的に受け入れてくれたニース側のスタッフやマネージャーが滅茶苦茶良い人ばかりで、仕事的にも所期の目的を達成することが出来てよかったのですが、有る意味この三週間でいろんな意味で根性を鍛えられた気がします。
今は昔、ですが
たとえばソビエトはゴルバチョフが大統領になった頃で、東欧はまだ鉄のカーテンの向こう。ヨーロッパは諸々テロに見舞われていて空港には軍用犬を引っ張った自動小銃を持った武装警官がうろちょろ。中東やインド周辺で軍事紛争が散発的に発生。今ではクラシックカーに属する車が街中を走り回り、ドコで買っても旨いパンをかじりながら散歩したホテルの目の前のコートダジュールの海岸。(バカンスシーズンだったんで、安宿が全然取れませんでした)などなど。
自分の世界観や価値観を大きく左右する経験。ヨーロッパを中心に世界中から人が集まって仕事をしている環境に接した経験。まったく知らない言語が話される環境に接した経験。
これが今に生きているかどうか判らないんですけれど、でも、間違いなく自分の中で経験した強烈な夏、であったのは間違いない。
じゃ、最近の夏はどうしてる?
とりあえず子供と一緒のかけがえの無い夏、みたいなもんですかねぇ。夏の体験が自分だけのものではなく、子供を中心に回る家族との夏になったのが若い頃との一番の違い、かな?
その意味で、もっと歳を取ると、「あの夏」って言われると、子供と過ごしてた夏の事を言い出すかも知れませんね。
ま、それはそれ。