自分の首に下がっている値札を意識するという考え方
物理的に転職するしないに関わらず、就職してまもなくの時期からずっと意識しているのが、「自分の首に下がっている値札」という考え方。値札?なんだ、それ?
値札?
自分を商品にたとえて「値札」と称していますが、偉そうに言うと自分の存在価値を確認するものという表現が近いかもしれません。別に絶対的な年収を指すとか言う話ではありません。自分の首に下がった値札ですから、まず自分の価値観とか評価だとか、あるいは年収やら何やらを全部ひとまとめにしたモノだと思っています。
そもそもこの値札に書き込まれるもの、これは環境や状況、そしてその時点での色々な状態など諸々の変化で変動する、いわば時価だとは思うのですが、ここに自分で何らかの価値を書き込んで自分の立ち位置を確認することもあるだろうし、例えば企業における人事考課というのは上司なり組織なりがそこに上書きするものじゃないかと思います。
値札の書き換え
ある仕事で自分が満足感を得られる、あるいは自分が役に立っていると思うのであれば自分が書き込む値札は多分高めの設定になるんだと思います。それに対して周囲の評価が先物としての評価も含めて相対的に高めに書き換えてくれるなら、その組織で多分、いわゆる「出世」することになるんじゃないかと思います。
あるいは自分が書き込んだ値段より低めに書き換えられるのであれば、「出世」できない。そもそも何をもって「出世」というのかは難しい問題ですが、とりあえず自分自身の評価と周囲の評価が異なっているということ。コレを是とするか否とするか、受け入れるか受け入れないかというのが分かれ道。
評価が悪いから河岸を替えるのは悪いことじゃない、とは思う
個人的には、そして少なくとも2度転職した身からすると、自分にとって評価された内容が納得できず、その状況をなんとも出来ない、あるいは何とかする気力をなくしてしまったら、河岸を変えるのは悪いことではないと思っています。単なるワガママでも自分で納得できるなら、そして河岸を変えるリスクを負う気があるなら、別にいつだってかまわないとは思います。
「石の上にも三年」という言葉がありますが、これはひとつの「たとえ」。若いうちならとりあえず、この「三年」というのは根拠が薄いナリに一つの考え方でしょうね。四の五の言わず、自分の考えは一旦横に置いといて、とりあえず言われたことや指示されたことを求められている形にるる。これは大事。
かたやある程度の経験が積み上がってくると、まずは自分なりにちゃんとマイルストーンを設定して、ここにどれだけ近づけるのか、超えられるのかを判断する必要があるとは思います。超えるにはどうしたらよいか、超えられない原因があるとすればそれは何か。それは自分で解決できるのか、誰かに働きかければ解決できるのか、あるいは根本的に解決できない問題なのか。そこに何らかのリスクがあるのか。
どうしようもない、こういう風にやりたい、あるいはこうなりたいというモノや形がそこに無ければ河岸を変えるのも一つの方法。色んなものとトレードオフですが、選択肢としては存在すると思っています。
とはいえ、分不相応と思える無茶は怖い
もっとも、この歳になると今の立場ではとてもじゃないけど背負いきれないリスクがあるわけで、それほど軽い気持ちでモノゴトにあたることはなくなってきました。おかげでモノゴトに対する主張の仕方は若い頃と比較すると、一応それなりにオトナになった気はします。単に丸くなったといわれると嫌なのですが、少なくとも方法論は変化している。これは間違いないです。
なんだか平穏なゴールデンウィーク
まぁどんな立場もや役割にもそれなりに様々な形あるいは大きさの責任やリスクを背負っているものだと思います。私自身は全部背負い込む必要は無いし、そんな立場にも居ないのですが、最近多くのことが同時に重なってしまったこともあって、心身ともにクールダウンというかリフレッシュが必要なのを痛感しています。
今この瞬間は幸いなことにとても平穏なゴールデンウィーク。現在の自分の状況と立場、進むべき方向や果たすべき役割、そして連休明けに再開するバタバタの大変さなど諸々考えつつ、とりあえず今日は休暇だし、のんびりと息子とキャッチボールでもするか。