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ビジネスモバイルITベンチャー実録【朝メール】から抜粋します

ニッカウヰスキーの創業の場所が余市になった理由

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おはようございます。

空の端には青空、真上は重い色の雲。妙な混じりです。

===ほぼ毎朝エッセー===

今度NHKの連ドラで「マッサン」というものが始まるそうです。そのモデルが竹鶴政孝という人物だそうです。きっかけがあり、父から、ニッカウィスキーが何故北海道の余市にできたのかということを教えてもらいました。

竹鶴氏はスコットランドにウィスキーを勉強しに行き、その後大日本果汁、後のニッカを創業し「日本のウイスキーの父」と呼ばれている人物です。スコットランド人のリタさんという人が奥さんです。

その話題で余市出身の父から話をいくつか聞きました。ニッカウィスキーが余市にできた理由に、どうやら父の父が関わっていたようだということを知りました。父の父、坂本角太郎は余市の町長を長年勤めた人です。名前で検索したら余市のホームページから情報が出てきました。
http://www.town.yoichi.hokkaido.jp/anoutline/yoichistory/sono77/sono77.html

引用させてもらいます==>

〈坂本角太郎氏〉
 明治30(1897)年、石川県羽咋郡に生まれました。大正10(1921)年、余市町で雑貨商経営、昭和5(1930)年に商工会議所副会頭、同9年に町会議員に当選しました。この頃に沢町と黒川町の大火で困っている人々を救おうと復興期成会を結成して会長となって陣頭指揮に立ちました。
 戦後間もない昭和22年に町長に初当選、4期16年間の在任期間でした。また、北海道漁港協会長、全国漁港協会副会長にも就任しました。
 坂本町長はまた、観光開発に力を入れ、全町公園化を計画、モイレ山開発、天然水族館建設、温泉開発に力を注ぎました。

<==以上引用終わり

父いわく、その祖父が町会議員だったころ、竹鶴氏と汽車の中で隣り合わせたとのことです。竹鶴氏は、ウィスキーの製造に適した、スコットランドに似た気候の土地を探しに北海道まで出向いていたとのこと。

「ウィスキーに必要なのはいい水とオゾンです。水はいい天然水、オゾンは海から、そういう場所を探しているのです」

そう熱心に語っていた竹鶴氏と意気投合した祖父は、彼の妻のお姉さんの旦那さんにあたる、田島氏という事業家、彼が所有していた余市駅前の土地を工場の土地として提供することに話をつけたそうです。そのようなきっかけで、昭和9(1934)年、余市の駅前にニッカができたとのことでした。

何年も寝かせる必要があるウィスキー。それができるまでは余市のリンゴを使ったジュースなどを販売して凌ぎ、戦時中にはウィスキーは軍に召し上げられるなどの苦難へ、話が続きました。ニッカがリンゴ系のシードルやアップルワインという商品を持っているのにはこういう理由があったのですね。

いまや日本のウィスキーは本場のイギリスで高い評価を受けるようになったわけですが、80年前には、熱意ある人物が、周りに助けられながら立ち上げた、いわゆるベンチャー企業。熱意を持ち続けるということの大切さを再認識しました。

それにしても、身近な人たちが知っていることで、自分が知らないことも多いものですね。

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