キムヨナ選手のエキシビションから伝わったメッセージ
おはようございます。
晴れ空。天気予報どおりに確かに暖かくなってきています。
===ほぼ毎朝エッセー===
「みっともないなぁ…」
キムヨナ選手を応援する韓国での様子がテレビで放映され、あまりにアツくなっている人々がいる。それを批判的な目で不愉快に見ている自分に気が付きます。もっともそのシーンもそういう意図で放映されているのでしょうが。
ふと見返すと、自分たちも似たものではないだろうか。日本人選手とメダルへの、異常な関心を示すだけのテレビ番組やメディアに違和感があります。ワールドカップでもそう。「ニッポン~!」と叫んでいる。飛行機事故でもそう。「なお、日本人の犠牲はありません」で、ニュースが終わる。
スポーツなどではその優劣に一喜一憂する。ニュースでは他国民に関心がない。国境という人為的な区分けををよりどころに、自分たちと他の国民とを別なものとして捉えるのです。視聴者がそれを求めていることに、メディアが素直に反応しているだけかも知れません。この現象になぜだか危険性を感じて、どうしても心が熱くなれないのです。
何故なのか。考えてしまいました。
先日、父との会話で思い出したことがあります。自分が小学校1年生の頃のことだそうです。ジュネーブに住んでいたころ、日本からアイスホッケーのチームがやってきて、スイスチームと戦ったのです。スケートリンクに、父と応援に行ったのを覚えています。
「史郎は日本チームがゴールすると、周りのスイス人の中で一人立ちあがって拍手しながら大騒ぎをしていたよなぁ」
すごい愛国者ぶりだったとのことでした。小学校1年生。どうやら、人にはほぼ本能的に愛国心というものがあるようです。自分のアイデンティティを示すためでしょうか。「自分は凄いのだ」ということの代理証明のようなもの。
同じ国には家族がいる、親戚がいる、子供の頃からの友人がいる。少なくともその割合が多いです。その身近な人たちが、活躍するのを無条件に嬉しく感じるようです。その裏には自分の民族は優秀なのだというプライド、微妙に地政学的な危険性が存在しているのかも知れません。
アイススケートのエキシビションでキムヨナ選手がImagineで演技していたのが象徴的ではないかと思いました。Imagineのメッセージは「宗教や国境、所有などを無いものとして捉えたらどうだろう?」というもの。彼女は果たして、韓国国民の大騒ぎを嬉しく思っていたのだろうか。その無表情な演技からは、演技とは別なメッセージを感じたのです。