書評:「感じるマネジメント」
企業理念の大切さは、「ビジョナリー・カンパニー」を読んだことがある人なら、誰でもよく理解していることである。
歴史もあり、業績もしっかりしている企業には、しっかりと受け継がれてきた企業理念があり、それが組織をつくり、人をつくり、企業活動の価値観の源泉になっているということを、同書では述べている。この本が刊行されたのは90年代半ばであり、日本だけでなく米国でも広く読まれたようであるから、色々な企業の経営者に影響を与えたのは間違いない。私がここ4年の間お世話になっているシスコシステムズでも企業理念を前面に打ち出して、組織づくりや人づくりを行っている。
著者名「リクルート HCソリューショングループ」と記されている『感じるマネジメント』(英治出版)にも、米国企業の間では企業理念がある種の”仕組み”となって機能しているところが少なくないと書かれている。ただし、日本企業に”仕組みとしての企業理念”を適用するのは、あまりうまくないのではないかとも書かれている。
米国では、企業理念の確立と運用というか実践が、ある種のベストプラクティスになってしまっていて、いわば、よくない意味で言う「型」になっているところがあるのかも知れない。あそこもあそこも企業理念を確立してやっているようだから、ウチもという具合だ。これ式の企業理念の導入は、日本企業にはふさわしくない。では、どうすればいいか、というのが、本書が解明しようとしている課題である。
弊ブログでも何度か記しているように、わたくし自身も、スモールスタートであるけれども新しい会社を興して新しい事業を確立しようとしており、そこでは企業理念らしきものが非常に重要であるという認識に立って、それっぽいものを何バージョンか書いてみたりした。また、相棒の石井大輔君も、彼なりの企業理念のドラフトを書いて、二人で論じ合ったりしている。
企業理念は、価値基準であり、役員も社員もすべての社内関係者が行動する時の道しるべのようなものである。例えば、選択がしづらい時、企業理念に照らして、「あのように書いているから、ここでは、こう選択すべきだろう」といったような、とっさの時の判断基準になる。
企業活動には、清濁併せ呑まなければいけないような場面も多々出てくるだろうから、ぎりぎりの道義的な判断を迫られる瞬間もある。そういう時にも、自社の企業理念を思い起こして、「わが社の理念には○○○○○○○とあるから、ここは心を鬼にして×××と決断しておこう」となるわけである。非常に重大な意思決定の局面で、企業理念が右か左かの決定に関わる。自分の理解では、これは、企業価値の創造の源泉であるということだ。ちなみに、企業価値が、オプションの連続的な行使によって形作られていくということについては、ここで以前に書いた(舌足らずなところがあるけれども)。
実のところ、高津尚志さんの手になる『感じるマネジメント』では、この企業の価値の源泉であるところの『理念』について、どのように確立し、会社全体でどう共有していくのがよいのかを、実録として書いている。これは非常に貴重な情報であり、知見である。
デンソーと言えば、Fortune Global 500に含まれる数少ない日本企業の1社である(2006年度207位)。世界のトップに躍り出たトヨタの企業活動を陰で支えるだけでなく、世界第二位の自動車部品メーカーとして独自の展開を行う国際的な企業である。進出している国・地域は30以上に上る。会社全体で多様な言語が使われているわけである。
このような世界的な広がりを持つ大企業において『理念』を確立し、共有していくとはどういうことなのか。何が問題になり、どういう解法があるのか。そういうことを本書では述べている。高津さん自身がリクルートのコンサルタントとして経験した話であり、「求道の書」に近い内容となっているのが特徴である。
さわりを少し書く。
-Quote-
「ある考え方を伝えるためには、古い言い方ですが『同じ釜の飯を食べる』ことが大切です。つまり、一緒に苦労するということです。その中で、先輩がどんな風に考えて、どんな信念を持って仕事をしているかを聞いたり、感じたりする。そういうことが大事なのです」
松下電器産業の瀬口マネジャーは、そう語った。
「上司の大事な役割は、悩んでいる部下に対して『理念のあの項目を思い出してみろ』と投げかけてみたり、過去の逸話を話したりすることです。そうして、あとは自分で考えさせる。最初は分からない顔をするのですが、しばらくすると『なるほど、わかりました』とすっきりした顔で報告に来るのです。自分で考えて、自分なりの答えをつかみ取ることが大事なのです」
自分で考え、つかみ取る。
仕組み化のアプローチについて懸念した「やらされている感じ」とは正反対だ。
-Unquote-
解を求めていく過程が1つのストーリーとなっている。
ユニークなのは、高津氏が、理念の共有という非常につかみづらいものの原理を探していくなかで、カトリックの碩学に会って話を聴く場面があるということだ。
-Quote-
プロジェクトの背景や取材の目的などを説明した後、私は切り出した。
「カトリックの布教のプロセスにヒントを求めたいのですが」
神学部長は答えた。
「高津さん、<布教>という時代は終わりました」
十六世紀以来、カトリックの布教に命をかけ、世界各地で成功と失敗、迫害や弾圧すら経験してきたイエズス会。しかし、その長い布教の歴史は終わったのだと山岡氏は言う。
中略
「上から下へ、相手の持っていないものを授けてやるのだ、という考え方はもはや機能しません。いや、もともと機能しないのです。そういうやり方は、西洋の科学技術が世界の最先端を行っていた一時期に、力のない伝道者が安易に技術の威光を借りて行なっていた方法にすぎません」
そのような形でカトリックの教えを「授けられた」信者が、年をとるにつれて信仰心を失い、土着の宗教に戻っていく例が多数見られたのだという。
「成功した伝道者は、どういう方法をとったのでしょうか」
-Unuote-
ここまで読むと少しおわかりいただけると思うが、高津氏のアプローチは非常に愚直であり、あくまでも愚直である。おそらく他の人はやらないレベルまで真摯になっているその愚直さが、他の人では不可能な知見の獲得を可能にしているように思える。
本書の文章は非常に読みやすいため、わりとさらりと読み終えることができる本になっている。一度読んでみて、後から再び、気になるところなどをめくり返してみていると、「おぉ」という発見があるはずだ。少し時間を置いて読み返すのがいい。やはり求道の書だと思う。