いま目の前にいる人、変化するものを大切に。「生あるうちに」。~ 絵と詩と音楽(n)~
昨日の記事の続き。
2nd.アルバムの入力作業が、香害対策と介護のために遅々として進まず。歌詞を先に公開。
これは、介護がテーマの歌だ。
ワンオペ介護は、物理的に厳しい。
24時間、ひとりで見守らねばならない。「少し目を離した隙に」何が起こるかわからない、というよりも、「少し目を離した隙にこそ」何かを引き起こすのだ。
だから、シャワー、着替え、トイレ、食事は、秒速でこなす。なにしろシャワーの栓をひねった途端、居室から、「誰もいない!」と泣き声が聴こえてくるのだから。
要介護者の睡眠時間は定まっていない。四六時中、夢うつつで、寝たり起きたり。熟睡を確認して、この間に仮眠を、と目論んでも、すぐに目覚めて叫ぶ。
ITエンジニアは、昼夜逆転や緊急対応に慣れている。定時間勤務の人よりは、不規則な生活に適応しやすい。それでも、疲労の蓄積は避けられない。
筆者の親はいわゆる「困った親」だ。考える前に行動して、筆者のみならず、周りを巻き込んでしまう。感情がフラットで長期報酬系の筆者と、感情の起伏が激しく短期報酬系の親は、相互理解が難しい。
それでも、人として、できる限りのことはしなければ、と考えている。その個体は、その個体としてしか、生きることができないからだ。
そこで、こういう歌でも作って、目の前にいる人を、たいせつにしなければ、と、自身に言い聞かせるのだ。
この歌のようにやさしくあらねば、と、気持ちを新たにする。
4年前、熱中症をきっかけにせん妄に陥り、その後、減薬にともなう離脱症状から、筆者が心マをする事態にまでなった。体重が短期間で大幅に減少し、看護師さんたちから生命の危険を宣告された。だが、泊まり込んで料理に励んだところ改善。記憶力も思考力も戻ってきた。
ところが、今年の連休、介護サービスを拒否してハンガーストライキを起こし、脱水で入院。医師からは、もって1週間、長くて半年、と言われたが、その半年を過ぎた。食事量には、訪問医も驚いている。
数年前、当時のケアマネが、実親の介護のため、仕事をやめて、単身、帰省した。そのとき、「互いに100歳まで長生きするように、介護をがんばりましょう!」と励まされたので、「互いに、めざせ、100歳!」と、約束した。
というわけで、介護がテーマの歌である。
今でこそ言葉を仕事にしているが、小中学生の頃はまだ歌詞をおもうように書けなかった。宮沢賢治「春と修羅」や谷川俊太郎「うつむく青年」の中の、好きな詩に曲を付けることから、歌作りを始めたのだった。
この歌は、中学生の頃、立原道造「ひとり林に」に付けた曲がベースになっている。2015年、その曲に合わせて、詩を書いた。だから、「ひとり林に」の詩と、ノートの数が同じである。
「誰も見ていないのに、咲いてる花と花」10文字、9文字
「生きてこそ会えるから、我儘ききましょう」10文字、9文字
生あるうちに (Old Mother's Song)
<作詞:2015年、作曲:1975年>
~介護者の心が鎮まるよう願って~
生きてこそ会えるから
我儘ききましょう
生きてこそ触れるから
苦しみ包みましょう
遠いまなざし
桜並木に
きれいと言った
たしかに言った
変わらない日々のなかで
喧嘩をしては笑い合いましょう
風になびく
雲の行く先
追って追って車いす行く
知った町、知らぬ道
ゆるやかに流れゆく時に
こどものころの故郷を想う
「太鼓の音よ」
響く気がした
明日は祭りね
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生きてこそしたためる
手紙を書きましょう
生きてこそ装える
色をまといましょう
嘆き疲れた母の歴史に
祖母の面影
垣間見えても
深く眠る記憶は
楽しい今で覆いましょう
泣きたかった幼い母は
靄の中に薄らぐように
喜びはそのままに
おだやかに繰り返す日々に
私を背負う頃に戻った
あのころいちばん幸せだった
産んでよかった
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風景じゃない
歳月じゃない
母のいる場所 そこがふるさと
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小さくなった
丸い背中が
子守唄を
口ずさんでる
いつか時満ちるまで
許し許され語り合いましょう
一生懸命育てたけれど
やり直したい 二回生きたい
ごめんなさい
許してね
さかさまに流れゆく時に
私が母で、母は子になる
生まれ変わって繰り返すなら
親になろうか
冬の瀬戸内海。愛媛県運転免許センター(松山市勝岡町)から斎灘を臨む(筆者撮影)