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ヴィジュアル、サウンド、テキスト、コードの間を彷徨いながら、感じたこと考えたことを綴ります。

「木漏れ日のかたち」に、同じものはない。今このかたちを作る時のやさしさ。~ 絵と詩と音楽(n)~

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昨日の記事の続き。

2nd.アルバムの入力作業が、香害対策と介護のために遅々として進まず。歌詞を先に公開。

今回の歌は、現象の儚さと輝きを綴ったものだ。1981年に作り、2018年に歌詞だけ見直した。

中学時代、仲の良かった女子が二人いた。ひとりは幼馴染、今は歯科医をしているらしい。もうひとりは別のクラスで稀に話す程度だったが、気の合う子。ずっと友人でいたいとおもい、向こうもそうおもっているようだった。

進路を決める時期になり、学年主任から勧められたイラストレーターとしての就職話に親が反対、高専を志望したら「共学ではあるが女子学生用の設備がまだで受け入れ不可能」という理由で受験できず、困り果て、ふたりに尋ねたところ、ふたりとも同じ高校を受験すると言う。仲良しのふたりが行くのなら、と、それだけの理由で、筆者もその高校を受験した。筆者が他者に助けをもとめることは珍しいのだが、その稀な機会に、彼女たちはサラリと助けてくれたのだった。

高校では、三人とも別のクラスになってしまった。幼馴染は私大医学部を目指した。もうひとりの子は文系、東大一択だと、誰もがそうおもっていた。ところが、彼女の家庭の事情が大きく変わった。進路を閉ざされた形になった。勉学一筋だった者が、第2の進路を考えなっければならなくなったのだ。

その頃、筆者は「明日の人」という歌を書いた。

「 記そう描こう 瞼に残る、明日の人の生きた姿を」

なぜそんな歌詞を書いたのかわからない。頭の中に浮かぶものを書き留めたら、そうなった。歌詞に限っては、ロジカルに考えて書くことは稀。だから、後に、ああそういう意味だったのか、と気付くことが少なくない。自ら書いた詩に、導かれるように、人生を歩いている。

その後、ふたりとも就職して激務に明け暮れていたある日、彼女は亡くなった。
訃報を知らされたのは数日後だった。亡くなったその日、筆者は過重労働から高熱を出して欠勤して臥せっていた。当時は、携帯端末が一般的ではなく、インターネットもない時代。つまり、両者が自宅の固定電話の傍にいない限り、話すことはできなかった。

だから、インターネットが登場したとき、これだ!とおもった。いつでもどこでもコミュニケーションをとれる手段。つらい状況にある人とつながることのできる手段。すばらしいツールだ!

1995年、勤務先で、ウェブ制作事業を始めた。インターネットは、地域が、社会が、すこしでも明るい方向へと進むように、人々が幸せになるように、使うものだ。多くの作業を無償で手掛けた。芽が出て、蔓が伸びた。そうしてITは筆者の仕事のひとつとなった。

これまで書いた歌のストックから。2bnd.アルバムに収録するものを選んでいたとき、ピアノと歌だけで成立する、シンプルなこの歌を入れようとおもった。そして、2018年、元の詩を3割ほど残して、大幅にリライトした。

木漏れ日のかたち (One-time Figure)

<作詞:1981年、リライト:2018年、作曲:1981年>

どこまでも明かりのない時をひとり歩けば
扉開き
映る人の影を眺めたくなる

そして
息をするために生きて
倒れて
耐えて
ここに在る苦しみを負った人を見る
けれど

見上げれば
時の空を覆うような桜の花
光の粒がすり抜ける
生まれて
消えて
また生まれゆく

来たりくる明日の人よ
過ぎて逝く今日の人よ
二つとはない木漏れ日のかたちを創る
時のやさしさ

---------

振り向けば
差し出された手さえ表返しで
扉閉じて
ひとり出口のない部屋に佇む

たとえ世界のすべてに見捨てられたとしても
わたしだけはわたしを見捨てたりしない

そっと見上げれば
時の空に浮かび来る数多の影
わたしも生きる
この時を
生まれて消える心つないで

来たりくる明日の人も
過ぎて逝く今日の人も
二つとはない木漏れ日のかたちを創る
時の随に(まにまに)

---------

起きて深い眠りから醒めて
疲れて
尽きて
生きる意味に気付いて
問いに問い返す

めくるめく月日が過ぎ
離れ逝く時が来れば
記そう描こう
瞼に残る記憶の淵に浮かぶ記号を

目覚めゆく明日の人よ
朽ちてゆく今日の人よ
記そう描こう
木漏れ日のかたちに揺れる人の姿を

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冬の瀬戸内海。愛媛県運転免許センター(松山市勝岡町)から斎灘を臨む(筆者撮影)

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