試される倫理観。仕事のベネフィットとリスクを天秤にかけろ。詩歌の役割(1) ~ 絵と詩と音楽(n)~
モノが飽和して、売れない。それでも、成長し続けなければならない、企業。作って、売らなければ。
各社、知恵をしぼる。
その中には、ベネフィットよりもリスクの方が大きい、製品やサービスがある。
あるいは、使用時には低リスクでベネフィットの方が大きくても、製造・維持管理・リサイクルまたは廃棄の工程で、それが逆転する、製品やサービスもある。
対価を得る仕事が、必ずしも、社会貢献につながる仕事であるとは限らない。
自分の仕事が社会にもたらす、ベネフィットとリスク。
読者の皆さまは、突き詰めて考えた経験があるだろうか。
もし、企業倫理と個人の倫理観がぶつかる事態に直面したなら、どうすべきだろうか。
社会的活動につきまとう、エネルギー問題と環境問題
1980年代、筆者は10代、フリーランス。降ってわいた小さな作業、その関係者たちから、原発反対運動に誘われたことがある。
ところが、「その声をかけてきたひとたちに限っては」、当時としては最新の電化製品を使っていた。
前々回書いたように、自然賛歌を歌う John Denverが、燃料を使う自家用ジェットの操縦を趣味にしていたようにだ。
この矛盾に、頭を抱え込んだ。
さらには、ほかの政治運動が絡んでいて、そのすべてに賛同することはできなかった。
考えるための情報が不足していた。ネットのない時代、新聞、雑誌、図書館から得られる情報には、限界があった。
どうすればいいのかわからず、辞退して距離を置いた。
数年後、その問題に向き合う出来事が起こり始めた。
エンジニアリング会社に勤務していたときのことだ。繁忙期になると、別の部署から、配管部材集計に駆り出されることがあった。筆者にプラント設計の技術はない。ただ、作業にミスがないからという理由で、声がかかっていた。まだCADのない時代、図面の山を手作業でやっつけていく。図面の中に並ぶ化学式に、それを扱う作業員たちの重責を想像して、凍り付いた。
その図面は化学プラントのものだったし、勤務先の業務内容は原発には無関係だった。だが、プラントという共通項から、原発に感じていた疑問と結びついた。さらにそれは、地震とも結びついた。筆者はその昔、大学受験に際して、地球物理という進路を考えたことがある。その分野には進まなかったが、細々と関心だけは続いていたのだった。
地震が発生したら、こうした産業設備の配管は耐えられるのだろうか?
万が一にも大きなリスクの可能性があるなら、発信したほうがいいのではなかろうか、と考えた。だが、配管設計の専門知識のない者に、何ができるというのだろう?
分野を越境して入社した筆者にとって、執筆も仕事ではあったが、散文では直截で、風説の流布になりかねない。韻文なら比喩で緩和できるかもしれないーーーそう考えて、雑誌に詩を寄稿してみたが、日の目を見ることはなかった。
1986年、チェルノブイリ原発事故が発生。連日マスメディアはそのニュース一色となった。多くの人に恐怖が焼き付いた。
1989年5月いや6月だったか、会社帰りに立ち寄った書店で、平積みの新刊が目に留まった。
「ぼくが原発に反対する理由」。著者の西岡孝彦氏は、愛媛県出身。だからか、目立つ場所に置かれていた。
プロフィールを見ると、その昔、筆者が電気科(今は電気情報工学科)の受験を希望して、「女子学生用の設備がまだできていないから」という理由で断念した高専の卒業生だった。勤務先には、その高専卒の尊敬できる技術者が何人もいた。因縁を感じて、手に取った。
一読して、驚いた。一部とはいえ、インフラを支える重要な設備で、リバースエンジニアリングの要素があることに、愕然とした。にわかには信じがたかった。
技術に馴染みのない読者のために言い添えておくと、リバースエンジニアリングとは、開発工程を現在から過去へと逆手順で探る作業だ。
通常は、設計図面をもとに製造する。ところが、図面や仕様書が残されていなかったり不足していれば、製品から推測して図面を作成するしかない。その逆手順で作成された図面をもとに、部品の交換や機能追加を行うことになる。何も問題は生じないかもしれないが、問題が潜んでいないとも言い切れない。不透明性を完全には払しょくできないのだ。逆手順では、帰納的になる。演繹的ではない技術開発のリスクを、筆者は危惧する。
ITエンジニアから見れば、その見方は、厳しく、怖がりすぎだとおもうかもしれない。たしかに、筆者は怖がりではある。
だが、それだけではない。IT業界におけるコードのリバースエンジニアリングと、紙ベースの時代の重厚長大系でのモノのリバースエンジニアリングとでは、恐怖心への配線が違うのだ。前者は間接的だが、後者は直結している感がある。
筆者は、父の背中を見て育った。父は、造船用クレーンや桟橋の強度計算の専門家だった。サイレントチェンジを防ぐために、現場に足を運んで監視し、部下の計算結果を持ち帰っては、検算していた。父の仕事は、常に完璧だった。
そんな父のもとで育ったから、筆者は、小学生になった頃には、設計責任の重要性を理解していた。幼稚園の頃は、ロケットのエンジンの開発者を夢見ていたが、父のように、何時間も注意をそらさず1点に集中する、ということが難しい。社会的なリスクを考えて、その夢をさっさと諦めたのだ。
勤務先の社員たちも同様だった。設計責任の重さに怖気づいており、重責につぶれそうになりながら、日々の業務に取り組んでいた。
われわれは理解していた、自分たちの仕事の重さを。ささいなミスが、事故を引き起こすことを。作業員の死、そうでなければ大けがの後遺症につながることを。
設計者は、作業員の人生を背負っている。そして、作業員は、住民の人生を背負っている。
筆者の周りでは、誰もが、技術に対して、誠実且つ真摯な姿勢を貫いていた。
だから、西岡氏の経験談には、心底驚いた。ページを繰るたび、疑問が膨らんでいった。
ちょうどその年、5月~7月にかけて、伊豆伊東沖で群発地震が相次いだ。そのニュースを、筆者は関心をもって見ていた。地震列島、日本。いつ、どこで、巨大地震が発生しないとも限らない。
原発、配管、地震。
浮かぶのは、怖いイメージばかりだった。スピリチュアルな予知ではない。エンジニアの直感。
どの分野のエンジニアであっても、この背筋の寒くなる恐怖は、想像できるにちがいない。
企業利益と、従業員の信条が、相反するとき
その後、デザイン事務所に転職。クライアントのCADベンダーに常駐して、広告宣伝と操作マニュアルの編集を一手に担うようになった。
担当業務の合間には、同僚たちがデザインする印刷物の、図解やテクニカルプルーフ(技術説明文の校正)を担当した。
ある日、困惑する出来事が起こった。
同僚に、展示会の仕事が舞い込んだ。ブースを設計し、説明パネルやリーフレットを作る。
その展示内容から、設備のイラストや、テクニカルプルーフの要請があるのは必至だった。
引き受けるべきか、否か。
会社の利益と、個人の倫理観が、せめぎ合った。
しばし、悩んだ。そして答えを出した。
設備の図解、しくみの解説だけならば引き受ける。その情報は、万人に知らせる必要がある。
だが、オブラートに包んだ宣伝なら断ろう。社命ならば、内容について交渉だ。そして交渉が決裂するなら、退職するしかない。
貯金はなかった。大学時に借りた育英会の奨学金を完済したばかりだった。母を扶養していた。それでも、腹を括るしかあるまい。なんとかなるだろう。いや、なんとかするのだ。
結局、クライアントと勤務先のスケジュールが合わず、その話は流れた。ほっとした。
それは、原発をテーマとする展示会の仕事だったのだ。
仕事の成果よりも先に、仕事の意味を問え
おもえば筆者は、15年間のサラリーマン生活のあいだ、仕事の成果以前に、仕事の社会的な意味を問い続けてきた。手掛けるべきかどうか、ベネフィットとリスクを天秤にかけて考えてきた。
エンジニアリング会社に勤務していた80年代は、アナログからデジタルへの移行期だった。
1970年代、ビクターがホームビデオの開発を開始、ソニーのウォークマン1号機が誕生。以降、音声は単独ではなく、動画(映像信号プラス音声信号)になっていく。そして、動画を表示するテレビは、白黒からカラーへ完全に置き換わり、輝度信号+色信号になっていった。
映像記録方式では、ベータとVHSの戦いがあり、VHS陣営に松下が付き、米国RCAと提携、勢力を拡大した。
当時、ホームビデオは、米国で生産されていなかった。日本の独壇場の、輸出産業。その市場は、数兆円規模だったという(※ 1)。
ところが、映像技術はデジタル化が進んでいても、製品に付属する技術仕様書はといえば、まだデジタルデータではなく、印刷媒体だった。筆者は米国メーカー向けの仕様書を担当していた。筆者の製図はわかりやすいという評価を得られ、モデルチェンジしても長く使われて、そこは素直に喜んだ。
その一方で、仕事に疑問を感じてもいた。
ひとつは、米国上流階級のための仕事ではないか、という疑問。日本の多くの家庭には、まだ普及していなかった。
もうひとつは、事実を伝える道具になるのか、監視のための道具になるのか、ユーザーの倫理観によってどちらにでも転がる可能性がありはしないかという疑問。一抹の不安を感じていた。
こうした仕事への疑問は、今なお引きずっている。
だから、たとえば、過去のライブの映像が、多くのファンの心を支えている事実をSNSで目の当たりにすると、安堵する。映像が決め手となって守られる権利がある。助かる生命もある。
メーカーの経営陣、開発者、設計者、営業、事務、そして、部品を供給する企業、素材を製造する企業、金型を製造する企業、輸送や保管業務、製造ラインの設計や製造、シャーシやパッケージのデザイン、翻訳や通訳。そして、マスプロ品の製造を担う工員たち。ひとつの製品を海の向こうへ送り出すまで、実に多くのひとたちが関わっている。
その何万の中のひとつの歯車として、筆者は機能した、それでよかったのだろう。
筆者は、仕事の意味を考えすぎるのかもしれない。
デザイン事務所に勤務していたときは、宣伝する製品が、社会に有益かどうかを考えた。
その頃、製造業界は、FA化からCAD/CAMによるトータルシステムへと向かおうとしていた。
ヒトの仕事を計算機で置き換えることは、正しい方向なのか。
CAD化を推進したほうがいい、というのが筆者の出した結論だった。
当時、製造現場は、きつい、汚い、危険のKから「3K」と呼ばれ、若年層から忌避されていた。職人の高齢化が進み、現場は人手不足に陥っていた。長年重労働を続けた彼らの身体はぼろぼろだ。働き盛りの、壮年の職人でさえ、腕がしびれ、働き続けるために、頸椎の手術をすべきかどうか悩んでいる。ところが、その手術はといえば、もし成功しなければ、逆に運動範囲が狭まるという、一種の賭けなのだった。
彼らが定年以降も働き続けるのは、不可能だった。その結果、職人の経験と知識、ノウハウが、現場から急速に失われつつあった。
それらが失われてしまうと、どうなるのか。
既存の建造物や製造ラインの老朽化が進めば、対応できなくなってしまう。インフラを維持するには、経験の浅い者でも作業できるように、データベースを構築して引き継ぐしかない。
高齢の職人たちにとって、現場作業はきついが、デスクワークならできる。さらに、CAD化により、設計から製造までの一元管理が可能となる。全体設計図からの単品図の抽出、部材集計ができれば、転記や再入力の際のミスも減り、品質が向上する。
それまでパソコンに触れたことのない職人たちが操作できる、ユーザーインタフェースに優れた、国産のCAD/CAM、そして、KOMATSUの加工機と連動する製造システムを、全国の現場へ。黒船、AutoCADを退けた。(ただし、OSは、MS-DOSだったから、オール日本ではない)
現場のノウハウの蓄積、ベテラン職人の長期雇用、一貫合理化によるミスの防止と品質向上。
システムの普及は、社会に役立つと考えた。だから広告宣伝に尽力したのだ。
もし、宣伝対象のシステム導入の主目的が、ビジネス一辺倒のコストダウンや、デジタル化による人員削減であったなら、筆者は、迷い、悩んで、転職するしかなかったとおもう。
筆者は、今でも、デジタル化自体については、善であるとはおもっていない。素材も機器も、廃棄すれば、あるいは、災害で冠水したり流出すれば、環境汚染を引き起こす化学物質を量産する。
だが、複雑化する社会基盤は、紙ベースでは支えきれない。
ホームビデオのような小さなものなら図面は基板の数プラス1枚(内部結線図)で済む。だが、原発のような巨大構造物ともなれば膨大な数の図面が必要だ。部材集計に借り刺されたときの、図面の山を思い出すと、その管理と運送が煩雑を窮めることは想像に難くない。だから、リバースエンジニアリングの要素が入り込んだのだろう。
CAD/CAMを使って設計製造・維持管理されるものには、原発と同等かそれ以上に複雑な構造物もある。淡水化プラントのように、安定稼働が保証されなければならない設備もある。
図面や文書のデジタル化は、世界的な潮流となっていた。
見えない、境界線。素材と部品でつながる社会
1998年、筆者はサラリーマン生活に終止符を打った。関心を寄せていた技術仕様である「XML(Extensible Markup Language)」 が、W3C(World Wide Web Consortium)https://www.w3.org/ の勧告となった。業務で使える状態になったのだった。
看護と仕事の両立で過労死寸前だったこともあり、退職して、開業した。
XMLは、ロジスティクスを発端とする、CALS(Computer-aided Acquisition & Logistics Support)、その標準の文書電子化フォーマットであるSGML(Standard Generalized Markup Language、汎用マークアップ言語)を母胎とする言語である。
SGMLが生まれた背景には、印刷媒体のマニュアルの限界があった。印刷物には、情報の変更や追加により年々肥大化するという欠点がある。その結果、積載したイージス艦の喫水が数cm下がるほどであったといわれている。
デジタル化すれば、管理や輸送が容易になる。それを、計算機とヒトの双方が理解できる形式で共有すれば、トラブルを防ぐこともできる。たとえば、(時折、香害啓発者の間で話題にのぼる)インドのユニオンカーバイトのガス漏れ事故は、情報共有の問題がベースにあったといわれている(※2)。
そうしたニーズに答えるべくSGMLが生まれ、インターネットに対応させる形でXMLが誕生したのだった。
だからだろう、筆者が管理人を務めていた、XMLの技術コミュニティには、SIerの社員だけでなく、原発や国防に関わる企業の社員たちも参加していた。彼らは、特殊なひとたちではない。地域に根差して暮らす住民であり、善き夫であり父であり、身を削って懸命に働くサラリーマンだ。抗いようのない流れにのまれて、その職に辿り着いたのだろう。新卒の西岡氏が、原発の設計部に配属されたように。
仕事に疑問をもった西岡氏は、退職してリスクを伝える側の人となり、現在は農業を営んでおられるという。
XMLコミュニティに参加していた面々は、同氏のように、業務の社会的な意味について考えたことがあっただろうか。
筆者の目には、あるように見えた。絵や音楽や俳句に一時の慰めを見出す彼らの中には、苦悩した者もいるにちがいなかった。だが、渦中にいれば、いや、渦中にいなければ、心の平穏を保てないのかもしれない。新卒の早い段階で気付くのでない限り。
そして、彼らが手掛けているであろう設備や機器を構成する部品、その部品を製造するライン、物流に要する船舶や車両や航空機まで含めれば、実に多くの取引先が関係しており、そこにもまた従業員がいるのだ。サプライチェーンでつながる社会の中で、ごく薄く関わっているひとたちまで含めれば、膨大な数にのぼる。
社会にベネフィットを与える仕事、リスクになる仕事。ヒトだけでなく、生態系まで含めれば、どこまでが善で、どこからが悪なのか。
技術系業務に無縁のひとたちは、というよりも、社会的にベネフィットの大きい仕事に就いていて悩む必要のないひとたちは、社会悪とおもわれる行為をした一企業を、切り離せば済むと考えているフシがある。だが、どこで、いかに、切り離すのか。明確な線引きは難しい。
だからといって、何も考えず、ただ社命に従って給与をもらえばよいというわけではないだろう。
スキルを磨き、成果をあげるほど、社会のリスクが増していく仕事もあるのだ。
自らの担当する仕事の、社会的な意味を問い糺す。その姿勢は、すべての社会人に必要ではないだろうか。
すくなくとも筆者は、問い続けてきた。自分の仕事が、リスクを抑え、それ以上のベネフィットをもたらす仕事なのかどうかを。
そしてこれからも、社会にコミットできるあいだはずっと、問い続けて、悩み続けるのだろう。
※ 1 発明協会「戦後日本のイノベーション100選」家庭用ビデオ(カセット)
「(4)VHSの開発と規格競争」の後半と、「(6)ビデオ市場の拡大と社会的効果」の前半が参考になる。
※2 「CALSの実像 コストダウンの決め手」閻川隆夫、伝田晴久、城戸俊二、共著、1995年7月15日1版、日経BP出版センター。
「なぜ、歌を作るのか。危機を伝えるために、警告を歌え。 詩歌の役割(後)」鋭意執筆中。書き進めるうちに、本稿に時系列のわかりにくい部分があることに気付いたため、修正しました(2024/10/09)。