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ヴィジュアル、サウンド、テキスト、コードの間を彷徨いながら、感じたこと考えたことを綴ります。

カフェの閉店に見る、飲食店の社会的役割。~嗅覚センサーを見直そう(17)~

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高残香・抗菌・除菌・消臭などの機能をもつ日用品に含まれる化学物質。その影響は、事業にも及んでいる。
初発は、不特定多数の集まる、物質が滞留して重積しやすい閉鎖空間。小中規模の飲食店だ。
閉店や業態変更。その背景にあるものに、思いを巡らせてみよう。

カフェの役割は、飲食物の提供「のみ」にあらず

かつてのカフェは、社会のバランス機構

その昔、街角には個人経営の小さなカフェがあった。

ほの暗い照明、静かなインストゥルメンタル。
壁には絵画や写真。選び抜かれたインテリア。あるべき場所に、あるべきもの。
静かに、おごそかに、たちのぼるコーヒーの香り。

効率をもとめて加速する社会の中に、おだやかな空間が点在していた。
急ぎ過ぎたこころを、生体本来のペースに引き戻す。社会システムの中に組み込まれた、バランスを維持する場。

当時のカフェは、経済活動の関係のみで成立するものではなかった。
飲食に対価を払う客、対価に応じた飲食物を提供するマスター、という関係以上のものが、そこにはあった。

店内は切り取られた映画のワンシーンのようだ。
珈琲、うつわ、装飾品。そして、「ひと」。マスターも、スタッフも、客も、出入りする業者も、その空間にあるものすべてが、シーンを構成する要素だった。

クリエーティブ・ディレクターとしてのマスター

マスターは、いわば、空間を創るクリエーティブ・ディレクターであり、カフェ・システムというプロジェクトを統率するプロジェクト・リーダーといったところか。

客は、風景を構成する要素のひとつとして、マスターの企図した空間を共創する。
同時に、自らがいる空間を眺める者でもある。
そこにあるモノすべてが、観測する側だけでなく、観測される側でもある。

客が入れ替わるたび、スタティックな絵はダイナミックになる。色彩が変わる。音が変わる。鼻孔をくすぐる香りも変わる。風景が醸し出す時間の、味わいが変わる。その場にいるひとびとは、豊饒な人生のひとときを分かち合う。それぞれの時間を与え合う。

かつての、街角のカフェの役割とは、「空間と時間を共創する機会の提供」であった。

優先すべきは、「誰の」イメージ?

だが、客が、カフェに期待するものは、変わり始めたようだ。それは、一様ではない。カフェの役割に対する考えかたの違いが、行動に現れる。

マスターは、珈琲の香り立つ中で、その香りに包まれた自分が働く様子をイメージしている。
にもかかわらず、客が、マスターのイメージなど意に介さず、風景に馴染むことを拒否したら、どうなるか。
それぞれの客が自分の好きな香りをまとう正当性を主張し始めたら、どうなるか。

珈琲の香りを洗剤等のにおいが覆い始める。その中で、マスターは、要らぬにおいに耐えながら、珈琲をいれるようになる。さらに、それらに含まれる物質が、体調不良を引き起こす。マスクをして、心身の苦痛に耐えながら、働くようになる。

そのことを知りえたとき、客の行動は二分化する。
マスターに苦痛を与えている原因を、改善しようとするか、スルーするか、だ。

「観る者であり、同時に、観られる者でもある客」にとって、形にすべきは、マスターの企図するイメージだ。
珈琲の薫り高い店内で、マスターが健康に働けるよう、そのイメージの共創に一役買おうとする。マスターの苦痛は、珈琲の要らぬ雑味にしかならない。

「観る者でしかない客」にとって、形にすべきは、自分の企図するイメージだ。
店内のにおいにかかわらず、また、マスターの健康状態にかかわらず、美味しい飲食物を提供してほしい。病気なら治してほしい。自分の望むものを与えるよう、マスターに要求する。

もし、「観る者でしかない客」の要求を受け入れるなら、そこは、マスターの店ではなくなってしまうだろう。

こうした現象は、カフェに限ったことではない。
マスターの企図するイメージが異なるだけで、カレー店でも、ラーメン店でも、どの飲食店にも、同様に起こりうる。

顕在化し始めた実害、あるカフェの閉店

海の色のドア、花の色のランチプレート

高残香・抗菌・除菌・消臭などの機能をもつ日用品によって、閉店にいたったカフェがある。
宮城県の、コトリコーヒーである。

このかわいらしい名前のカフェを知ったのは、twitterからである。
ある日、同店の写真が、流れてきた。

愛媛在住の筆者は、コトリコーヒーのドアの色に惹きつけられた。
瀬戸内海は、地中海にたとえられる。海の青、空の青、みかん色、樹々の緑、白の波と雲。
店の前に自転車のある写真を見たとき、ドアを開けたら、海辺へ向かう一本道があるような気がした。
東北から、しまなみ海道へ、そして地中海へ。自転車に乗って、そのまま走っていけるような、一本道が。

そして筆者は、小鳥が好きである。駐車場に、数十羽のスズメが降り立つ。春には鶯が鳴く。外出すれば、鶺鴒が先導する。
小鳥は、たのしい。
コトリコーヒー、なんてかわいらしい名前だろう。

ランチプレートの写真も、流れてくるようになった。これまた、かわいらしい盛り付けである。野の花のような色彩の中に、小鳥が鎮座している。健康的で、太陽の味がするかのようだ。

これは良いカフェを知ることができた、と喜んだ。

店主夫妻、香害から、化学物質過敏症に倒れる

ところが、そのわずか数カ月後、閉店のニュースを目にすることとなった。
店に持ち込まれる柔軟剤や洗剤が、経営者夫妻を打ちのめしてしまったのだ。

閉店までの経緯は、同店のfacebookに掲載されている。葛藤が見てとれる。

閉店の理由は、健康上の問題だと書かれている。だが、それだけなのだろうか?
これは筆者の想像でしかないが、店主夫妻のイメージを具現化できなくなったことが、決意を後押ししたのではないか。プロなら、そうするとおもうのだ。アスリートが引退するように。
店主夫妻にとっては、自分たちと客で構成され創出される空間こそが、コトリコーヒーだったのではないか。

珈琲の香りを打ち消す合成香料のにおい、マスク姿で働くマスター、その光景を、俯瞰してイメージしてみてほしい。
それは、マスターの企図したイメージだろうか?

たとえば、システム開発において、個々のユーザーの要求を受け入れるなら、仕様膨張というリスクが待ち受けている。
店舗経営においても、客の要求を許容するなら、なし崩しになるだろう。個々の客のもつイメージが継ぎはぎの、散漫な印象の空間となる。

店はひとつのシステムだ。マスターの完成イメージを客に伝え、コラボレーターとして巻き込み、共創を推進する。
マスターには、その調整の手腕が問われる。
プロジェクトを完成に導くにはプロジェクト・リーダーが毅然としていなければならないように、マスターも毅然としていなければならない。 そして、倒れてはいけない。健康被害が生じるほどの仕様なら、できるだけ早期の段階で仕様を見直すしかない。クライアントとの関係性を損なわないように配慮しつつ。

とはいえ、いかに統率力と交渉力をもつひとであろうと、香害への対応は、困難をきわめるだろう。

なにしろ、前例がない。増え続ける化学物質に、研究が追いつかない。データがない。論文は少ない。自ら計測しようにも、「香害に特化した」手軽なツールがない。仮に計測できたところで、その数値は誤りだと一蹴される恐れがある。「自分には何の症状も出ていないから気にしない」と言われたら、返す言葉もないだろう。

香料アレルギーも、化学物質過敏症も、まだ、耳慣れないことばである。医療関係者のあいだでさえ、その定義は揺れている。
その言葉の意味を伝えるだけでも、ハードルは高い。
ましてや、移香をまとって入店するケースでは、線引きにも難しいものがある。

理解されない辛さ、理解してもらうための努力、そうした心労も、症状を悪化させる一因となりかねないのではないか。

一杯の珈琲の香りを曇らせる、化学薬品臭

昔から、珈琲は、エンジニアやデザイナーにとって、徹夜仕事の際の燃料であった。筆者も、そのひとり。仕事に、珈琲は、欠かせない。

過日、長年使っていたガラスのドリッパーを割ってしまい、陶器のドリッパーを買いもとめた。どうすればそうなるのか分からないが移香していた。煮沸と洗浄を繰り返した。
ところが今度は、移香していないペーパーフィルターが手に入らないときている。
そのうえ、スーパーで珈琲豆を買うと、袋に激しく移香している。ネットで取り寄せると、ダンボールを貫通して包装に移香している。
しばらく、「高知のうまいもんしょっぷ きいや」から「龍馬コーヒー」を取り寄せていた。過剰包装の個包装だから中までは移香していない。だが、ドリップパックなので、豆をひく時間を楽しむことはできない。

コトリコーヒーが、通販を始めていることを知った。
同店の商品なら、移香の心配なく届きそうだ。
コトリコーヒーはフレンチロースト、筆者はイタリアンローストが好みである。東北ー四国間のフードマイレージもある。
だが、それらはこの際、無視しよう。スーパーでの移香が消えるまでの間だけ。

そこで、ペーパーフィルター不要の、カフェプレスを買った。その結果は、前回書いた通りの移香。この調子では、いつ注文できることやら。

コトリコーヒーからお取り寄せしたいひとは、同店のfacebookを見てほしい。
セカンドアビューズのコメントが付くリスクに対して筆者は責任を持てないため、リンクはしない。検索の一手間をかけてください。
パンやスコーンと自家焙煎の珈琲豆(もしくは粉)のセット販売。パンは、みるからに滋味のある焼き加減で、酸味のあるジャムがあいそうだ。

一杯の珈琲に、憐憫や義理や同情のスパイスは不要だろう。届いた珈琲豆の香りに、海の色のドアが開くなら、リピート確定にちがいない。

飲食店業界を追い込む、香害

ひとりのパワーユーザーの破壊力

店主の健康を案じた客の「大多数」が、使用中の日用品を見直したとする。
旧来の製品なら、使う客が減れば、それに比例して症状も軽減できる見込みはあったろう。

ところが、近年の日用品の香りは多彩で強く、昨夏からは、刺激臭を伴う成分の追加された製品が席巻している。むしろ香料よりも、こちらの方が厄介である(この問題については次々回で取り上げる)。規定量を使用したとしても、より強力に、より長く、留まり、拡散する。
さらには、洗濯用品だけでなく、室内や車内で使うスプレータイプのものもある。複数の製品に含まれる物質が、ひとりの客に重層する。

単独でも威力のある製品。
にもかかわらず、規定量を守らず、さらには柔軟剤スプレーを自作するひとたちがいる。
筆者は、そうしたひとたちを、パワーユーザーと呼んでいる。ヘヴィユーザーと表現するひともいる。

全ユーザーに占めるパワーユーザーの割合は不明である。
SNSの情報を見る限り、都会ほど多いようである。地方では、市町村単位というよりも、さらに狭い地区単位で異なるようだ。ある地区では無臭、ある地区では強臭、ということが起こりうる。
筆者の暮らす町に、パワーユーザーは、ごくわずか。筆者の嗅覚センサーが感知するところでは、数百人に一人いるかいないかだ。

ところが、そのひとりのパワーユーザーは、百人の規定量を守るユーザーより強力だ。
ひとりが入店するだけで、曝露リスクは急上昇する。

SNSに、「スーパースプレッダー」という表現を見かけた。事の重大性を的確に表している。現在の製品は、市井のひとりの消費者を、強力な1個のノードに変貌させる。ネットワーク理論を専門とするエンジニアに、抑止策を考えてもらいたいほどである。

においの強度を過小評価するユーザー

ヒトの嗅覚には、においに馴れる性質がある。
自分のまとうにおいに馴れ、より強いにおいをまとうようになる。だが、それにも馴れてしまう。強度は加速する。

使用者本人は「非常に強い香りをまとっている」「大量の成分を付着させている」とはおもっていない。「この程度なら問題ないはず」と考えていることだろう。たとえ香害問題について知っていても、化学物質過敏症について知っていても、だ。

これは、高齢者の運転免許問題に似ている
「自分の運転能力の低下を軽く捉えている」ように、「自分のにおいの強度を軽く捉えている」。

そして、他者の生命に対する影響力を低く見積もっている、という点でも似ている。

単なる日用品、ではないのである。コトリコーヒーの一件のように、店主の健康を損なう恐れがある。嗅覚センサーの優れた客なら、帰宅後に寝込んでしまう。
怖ろしいのは、化学物質過敏症一歩手前の客が、それとは気付かず来店している場合だ。発症の引き金を引いてしまう恐れがある。つまり、他の客のまとう物質が「馬の背に乗せた、わら一本」になる。可能性は低いがゼロではない。

周りの者が抑止力となる難しさ

「(その状態では)車を運転してはいけない」ように、「(その状態では)外食してはいけない」。
だが、本人は、自分の運転技術、自分の衛生観念を、過信している。自分は大丈夫だ、とおもっている。

そこで、身にまとう化学物質に気付いた周りの者が、抑止力となる必要がある。
ところが、これが難しいときている。この難しさもまた、高齢者の運転免許問題に似ている。暴走車のボンネットの上に乗り、外からブレーキを引く難しさ、とでもいえばいいだろうか。素人がスタントマンを真似るなど不可能ではないか。

難しい理由は、3つある。

ひとつは、規制がないということだ。
規制がないから、「社会的に誤ったことをしているわけではない」という主張が成り立つ
「危険なものを、売るはずがない」「好きなタレントが宣伝しているから悪いものであるはずがない」「近所のスーパーで買える」「安価」「香りは個人の趣味、個人の自由」「体臭を隠すほうが衛生的」「消臭はマナーのひとつ」―――さまざまな考えかたがある。 法律で禁止されていなければ、歯止めが利かない。

二つめは、嗅覚センサーの個体差だ。これが最も厄介かもしれない。
夏から消費の拡大した製品の、消毒薬臭、抗菌剤臭、殺虫剤臭とも形容される刺激臭。このにおいに対する感知力の個体差は大きい。よくにおうひとと、全くにおわないひとがいる。
におわないひとは、健康リスクを軽く捉えてしまいがちだ。

三つめは、人間関係への影響だ。
においの問題は、親しい間柄でなければ、指摘しにくい。下手に指摘すると、人間関係が壊れてしまいかねない。だから、口出しできない、となる。
筆者の経験からいえば、相手の反応に不安を抱えながら遠慮しつつお願いするよりも、腹を括って単刀直入に伝えるほうが、シャットアウトされにくい。とはいえ、それが、すべてのひとに奏功するわけではない。相手のパーソナリティによっては、伝えたところが逆効果になることがある。

伝えなければ、伝わらない。だが、その第一声を発することの、いかに難しいことか。

力づくで、外食を阻止しようにも

筆者は、パワーユーザーさんと外食に出かけようとする相方に、注意を促したことがある。
マナー違反、ほかの客の迷惑、営業妨害になる、とまで言った。だが、ことばに実効力はない。

では、物理的に阻止できるかといえば、不可能だ。相方と客の体重を合わせれば、筆者の4倍。力士にちびっこが立ち向かうようなものだ。
言葉で止められず、実力行使も不可能。武道の心得があるひとでも、いやむしろ心得があるほど、平和的解決を望むなら、阻止できないだろう。

もはや残された手はひとつしかない。クラウドファウンディングで資金を募り、Amazonで、クラタスを買うことだ。これなら物理的に止めることができる。
不謹慎ではあるが、こうしたブラックジョークに頼るしかないほど、全国の飲食店に危機は迫っているのである。

しかしながら、その後、筆者はクラタスに搭乗していない。
相方経由で客人に伝えることに成功したからである。客人は危険性を知らなかっただけで、思いやりは持ち合わせているひとである。コロン代わりの柔軟剤スプレー人体吹き付けは、すぐにやめてくれた。これにより、今では(筆者のセンサーが感知するところでは)においは1割に激減している。標準的な嗅覚の持ち主なら、相席でない限り、黙認できるレベルになっている。
ただし、使用製品そのものを見直したわけではない。また、もし、見直したとしても、使用履歴は消去されない。マスク生活のひとなら、近づくことは不可能だ。

飲食店のクローズを阻止せよ

「お店から何も言われない」なら、問題はない?

周りの者が入店を押しとどめても、「店側からは、何も言われていない。言われないのだから、かまわないではないか」という答えが返ってくることがある。 筆者も、そのことばを聞いた。SNS上にも、同様の意見を見ることがある。

「何も言われないから、かまわない」とは限らない。
「何も言わない」のではなく「何も言えない」場合がある。

たいせつなお客さまに対して、「におうから、お引き取りください」とは、言いにくいではないか。足を運んでくださるお客さまとの関係性を損ないたくはないものだ。
ディスコミュニケーションが生じて、互いに強い口調になると、楽しく食事をしている他の客に不快感を与えるかもしれない。
トラブルになろうものなら、店の評判にも影響しかねない。今はネットがある、評価を投稿できる。店側が気づいたときには、手遅れだ。情報は拡散してしまっている。
歓迎せざる状況だとしても、黙認するしかないではないか。

SNS上に、店主の苦悩が、見受けられるようになってきた。体調を崩しながらも、経営方法を模索している。
飲食店経営者にとって、とりわけ繊細な感覚をもつ料理人にとって、コトリコーヒーの閉店は、対岸の火事ではない(※1)。

おそらく潜在的に困っている店は多いとおもわれる。
入店を拒否するための客観的な指標と合理的な方法がないため、受け入れている店もあるのではないか。

なにしろ、入店可否の判断基準が、店主の感覚頼みでは、心もとない。客側も、店主の嗅覚センサーの精度を知りようがない。判断基準は、店主の体調によっても、揺らぐ可能性がないとはいえない。においの強さが判断に迷う境界線上である場合、前回は入店できたが、店主の体調が悪い今回は入店できない、ということが起こりうるかもしれない。
最も厄介なのは、ユーザーではない客が、店までの道中で強い移香をまとってしまったケースだ。とりわけ、移香の実態を知らず、遠路はるばる、寸暇を惜しんで通ってきた客を拒否するなら、客は面食らうにちがいない。

店主の苦痛をセンサーで捉え、客にフィードバックして同じ感覚を再現するような機器が開発されて初めて、客は自分の行為の意味に気付くのかもしれない。

※1『香害』に苦しむ人たち 体調不良でレストラン営業休止も」(十勝毎日新聞 Yahoo!ニュース 2020年12月23日配信)

合成化学物質まみれの客が入店するリスク

ユーザーの周りの者が制止できず、店側も黙認せざるをえない。店主を苦しめる製品が、規制される気配もない。消費は拡大する一方である。
何も予防策を講じることなく経営を続けるなら、店主もスタッフも、化学物質過敏症へ歩を進めかねない。

もっとも重大なのは健康問題だが、それ以外にも問題はある。

飲食店にとって、食材や食品、卓上調味料への移香は、味に関わる深刻な問題ではないか。
食材以外の物質の付着は、料理人にとっては雑音ではないか。味が変わる可能性もある。
嗅覚の優れた客、舌の肥えた客も、困ることになる。料理の香りを楽しむことができなければ、楽しいひとときがだいなしだ。そうした客の足が遠のけば、店の経営に響くだろう。

カトラリー、テーブルウェア、ソファ、カーテン、照明、観葉植物などへも移香する可能性がある。重積した後に気付いたのでは手遅れだ。因果関係を明らかにすることなどできない。一点ものの絵画やインテリアに移香したとしても、賠償は叶わない。
照明の上の埃にまで香料が付着するという話をSNS上で目にした。じゅうぶん考えられることである。店内全体におよぶ移香は、差し迫った危機だ。

人材難のなか、スタッフが倒れるおそれもある。
店内に持ち込まれた化学物質による長引く咳や鼻炎や頭痛が、風邪や花粉症や咳喘息によるものとして、見過ごされるケースが増えていく。
軽度の症状があるひとを含めれば、いずれ三人に一人は体調不良に陥っていくだろう。

合成化学物質満載の日用品を黙認することは、食にかかわる事業者にとっては、大きなリスクとなる。
このままの状況を放置するなら、飲食業界がひっくり返るような事態になりうる。
手をこまねいていると、事態は悪化する。「NO」を告げなければ、閉店に追いつめられる。

香り拒否や業態変更、生き残りへの挑戦

店主が体調悪化の原因に気付き、客に配慮をもとめたり、毅然とした姿勢を打ち出す事例が、見受けられるようになってきた。
店舗入り口に注意事項を掲示したり、テイクアウト中心にするといった営業形態の変更で、事業の継続を模索している。、

たとえば、最近の情報で言えば、「おうちごはんcafeたまゆらん(京都)」では、店主の健康に影響が及ぶおそれがある場合について、注意喚起をしている。
筆者は行ったたことはないのだが、写真を拝見すると、この店、看板猫がいるらしい。というよりも、ねこだらけ。IT業界には、「ぬこさま命」且つ「スィーツ好き」のひとが多い。無香害のひとは、一度、足を運んで、もふられてみてはいかがだろうか。

「伝えなければ、伝わらない」―――もし、入店を自粛してもらいたいなら、ドアに目立つポスターを貼り、店内にチラシや関連書籍を置き、店のウェブサイトで詳しく事情を説明するなどして、告知から、始めるしかないだろう。口コミ、フリーペーパー、近隣へのポスティングなども、有効かもしれない。

その際に重要なのは、「控えてください」ではなく「使用を中止してください、移香をまとって入店しないでください」という姿勢を、明確に打ち出すことだ。
「控える」という表現では、客に、使用量の決定権を渡すことになる。控えたところが規定量、という可能性すらある。
そうでなくとも、一度でも使用すれば履歴が残るのだ。店主がわずかな物質にでも反応するのなら、中止をもとめるしかないだろう。

どのような香りが入店拒否の対象となるのかを問われたら、どうするか。
原因となる製品の一覧を提示することが、客にとっては最もわかりやすい方法だ。あまりにも多種多様な製品がありすぎるので、具体的に提示しなければ、混乱のもとになる。
筆者など、もう、何が何やらわからない。そんな名前の製品があったのか、というありさまだ。
新製品や後発製品を危惧するなら、「高残香・抗菌・除菌・消臭などの機能をもつ日用品をすべてやめてください」と伝えるしかないようにおもわれる。

明確に、強く「NO」を打ち出すこと。それ以外に、店主の考えを伝える方法はない。
それを伝えることは、店側の覚悟を示すことでもある。

SNSで探したところでは、喫茶店、ラーメン店、カレー店、レストランなどの店主やスタッフが、客からの曝露により体調を崩している。
それでも、辛い身体に鞭打って、閉店の危機に立ち向かう店主がいる。休んで再起を期す店主がいる。

入店制限している店主は、ぜひ、twitter等で、ハッシュタグ「#無香害推奨店」を付けて、看板メニューを宣伝してほしい。

困っているのは、店主だけではない。
そのお店に行きたくても行けない、香害健康被害者や化学物質過敏症者たち。
ユーザーではない常連さんたちも、移香した着衣で入店しないよう配慮していることだろう。
そして何より、食の香りを楽しみたいひと、座席からボトムスやバッグに移香を付着させたくないひとが、その情報を待っている。彼らは、新規顧客、将来の常連候補であろう。

ひと対ひと、でなければ、できないこと

センサー利用の「入店制御完全自動化」は難しい

それでもお客さまには、話を切り出しにくい、という店主も少なくないだろう。

そこで、店主を介在させず、自動化してしまえ、ということになる。
エンジニアなら誰しも考えるはず。ヒトの嗅覚センサー頼みではなく、計算機に判断させればよいではないか、と。
店のドアに人感センサーを付け、客が来るとにおいセンサーを起動する。その値によって、ユーザーの入店を拒めばいいではないか。

だが、「完全自動化」は、現実的ではない。検討課題は、いくらでもある。

ひとつには、入店を拒否したい客に対して、どのような実効力を発揮するかだ。

「お引き取りください」などのメッセージを自動再生するのか、警告ブザーを鳴らすのか。取得したデータとドアの開閉を連動させて、入店許可の場合のみドアを自動的に開けるのか。 スタッフのスマホにデータを送信して、ドアの開閉はスタッフが手動で行うのか。

入店拒否の客と、入店可の客が前後して来店した場合、どのタイミングでドアを開閉するのか。
幼児や小学生への安全配慮は可能なのか。団体客の場合、不公平感は生じないか。
通りすがりの冷やかしへの対応をどうするか。

「数値の線引き」も、難しい。センサーにより取得されるデータの、どの値までを入店可とするのか
Windows Phone センサーアプリを開発した経験からいえば、処理実行の条件の定義には、難しいものがある。厳しくすれば、入店可能な客を拒否することになる。緩くすれば、店主が体調不良に苦しむことになる。

実装では、センサーが課題となる。何の物質を検知するセンサーを使えばよいのか?

小中規模の飲食店の商用利用に適した、においセンサー、VOCセンサーは、限られる。
それ以前に、VOCでは心もとない。周りから漂ってくる物質によっても、数値は跳ね上がる。
さらに、それぞれの店主によって、反応する物質が異なる。しかも、日用品メーカーは、各製品の詳しい成分を開示していない
近年の合成化学物質の中の、それぞれの店主が反応する特定の物質だけを検知するセンサーとなると、「実効性のある、安全な、入店可否判断自動化システム」を開発することは、不可能に近い。

ヒトの嗅覚センサーと交渉力は、技術に勝る

先に書いたとおり、完全自動化は不可能である。
空気清浄機のVOCランプや、VOC測定器を使い、計測データを目安にする程度であろう。

店主自身によるお願いと交渉を避けることはできないとおもわれる。

なにしろ、計測器が反応しないから、その物質が存在しない、というわけでもないのだ。
店主の嗅覚センサーがことさらに鋭敏である場合、人体は反応するが、計測器が反応しないということも、ありうる。
たとえば、医療機器に置き換えてみればわかる。CTやMRIやSPECTやPETがなかった時代、ベテラン医師の経験と勘による「どうやらここに病巣がありそうだ」という情報は、数値化も可視化もできなかったのである。
ヒトが誕生し、道具を作った。技術はヒトの後からついていくものなのだ。

そして、もうひとつ。運用するうえで、ヒトでなければ、対応できないことがある。
入店拒否された客の反応を予測できない、という問題があるのだ。
中には、「なぜ入れないのか」と激昂する客がいないとも限らない。そうなれば、飲食中の客に不快感を与えることになる。
客との間で一度でも一悶着あるなら、テナントでは、オーナーとの間の問題が生じるかもしれない。
では、表情や着衣から、客の反応をAIに予測させて、リスキーな客を拒否すればいいのだろうか。いや、そうした倫理問題に発展しかねない処理に、経営上のベネフィットはなにひとつない。

リアルタイムで相手から発する情報を感知しながら、言葉と表情を作り出していく。生身の人間だからこそできる対応である。

店主が、危険性を察知するなら、その感覚を信じて行動したほうが、健康リスクを避けられる。

ヒトは、もっと、デフォルトで備わっているセンサーを信じた方がいい。意識することなく吸っている空気のクオリティに対する感覚。 嗅覚センサーを見直そう。

ヒトよ、計算機未満に成り下がることなかれ

店主の体調不良の原因を知りながら、使用をやめることなく足を運ぶ客は、自分が損をしている事実を見つめ直した方がいいのではないだろうか?

たとえば、好きな歌手の楽屋へ行って、鼻と口めがけて柔軟剤スプレーを吹きかけて、さぁ歌え、うまく歌え、コンサートに来た自分のために、チケット代は払っているのだから、と言ったならば、良い歌を聴くことができるだろうか?
良い歌を聴きたいなら、相手が健康に働ける環境を作るほうがいいではないか。

おいしい料理を楽しみたいなら、店主が、スタッフが、健康に働ける環境を作るほうがいいではないか。

冒頭で、カフェは、マスターと客による、ゆたかな時間と空間の共創だと述べた。
カフェに限らず、飲食店は、店主とスタッフと客によって構成されるのだ。

飲食という具体的なものの価値のみを重視し、その時間や空間といった抽象的なことの価値に感覚を閉ざせば、店主の苦痛をスルーできるのだろうか。飲食から得られる情報と、場の発する情報を、「常に、自動的に」切り離すことができるのだろうか。

われわれは、仕事にも生活にも効率をもとめ、キャッシュの数字のように目に見える価値をもとめ、わかりやすい人生をもとめすぎてきたのではないか。飲食店に対しても、容易にデータ化できる、わかりやすい評価をくだし、それ「のみ」を判断材料としてはいないか。
美味しいか、美味しくなかったか。好みだったか、苦手だったか。料理を提供される速度が、早かったか、遅かったか。待ち時間は、短かったか、長かったか。スタッフの対応は、良かったか、不愛想だったか。

指標は重要だ。参考になる。だが、指標のデータに過剰適応してはいないか。われわれは、計算機に判断を依存しすぎてはいないか。 抽象的なことの価値を、明後日の方向に押しやってはいないか。
演算において、すでに計算機はヒトを超えている。それでも計算機はヒトを凌駕しない。物理的な死によって停止するわれわれには、悼むことを知るヒトならではの能力、抽象的な価値を尊ぶ能力がある。その能力を放棄して、抽象的な価値に感覚を閉ざすことなかれ。空間と時間を共創する機会を失うことなかれ。

コトリコーヒーのような町のカフェが消えるのは、珈琲好きのひとりとして、残念なことだ。
わたしが昔よく通ったカフェは、今では、外食チェーン店になっている。
その盛衰は、まるで植物群生の移り変わりのようでもある。
ならば、ふたたび、観る者として、同時に、観られる者として、空間と時間を共創するために足を運ぶ客が、増え始めるのかもしれない。

【注意事項】

「香害」という言葉は、普段何気なく使う日用品にもリスクがあることを知らしめるには、非常に有効である。だが、「香」の文字を含むことから、誤解を招きやすい言葉でもある。その意味するところについては本連載の次々回で取り上げる予定であったが、香りマナーの問題と混同されるケースがしばしば見受けられるので、先に注意事項をまとめておく。(「化学物質過敏症」については、書籍、研究報告書、SNSから得られる情報を、筆者自身の化学物質曝露の体験と照らし合わせて、筆者なりに解釈した内容となっている。)

「香害」は、「近年の高残香性をはじめとする除菌・抗菌・消臭・防臭等の機能を付加した日用品に含まれる一部の合成化学物質が、環境中に拡散して大気汚染と海洋汚染を引き起こし、それによって、生体リスクが生じるとともに、汚染された環境中にある、器物を棄損する現象」である、と(筆者は)解釈している。
つまり「公害」の一種であり、その本質は、環境汚染である。居住環境や労働環境が汚染されることから、深刻な健康被害を引き起こす。

※「香害」の原因となる物質は、かならずしも「香り」を伴うわけではない。無臭であっても有害な物質や、特定の個体のみにおいを感知する物質もある。

※「香害」により、健康リスクを生じた者は、SNS上では「香害被害者」と呼ばれることが多い。そのうちの何割かは、症状の憎悪により「化学物質過敏症」に移行していることがある。シックハウス症候群だけでなく、香害も、化学物質過敏症発症のトリガとなっている可能性がある。

※「化学物質過敏症」は、香害の原因とされる製品が発売されるよりも前から見られた疾病であり、「香害イコール化学物質過敏症」ではない。化学物質過敏症者の反応する物質は多種多様で、個体により異なるとされる。すべての化学物質過敏症者が香害の原因となる製品中の物質に反応するとは限らない。

※「化学物質過敏症」の症状を呈していても、未診断の者がいる。専門医療機関が少なく、また、交通機関や救急車や院内での曝露が確実視されることから受診にいたらないためである。重篤な未診断者が全国にいるものとおもわれるが、その数と実態はあきらかになっていない。

※体臭の制御に悩むひとたちにとって、職場や公共の場での香料自粛の推進は、頭の痛い問題になるかもしれない。
しかしながら、香害被害者や化学物質過敏症者にとっては、高残香性製品の使用は、生命にかかわりかねない問題である。
最優先すべきは「生命」であることを前提として、香料野放しか、香料の全面禁止かといった、オールオアナッシングに陥ることなく、双方にとって最良の着地点を見出していくしかないだろう。

※「香害」の原因となる高残香性製品以外にも、香水、化粧品、切り花など、香りを放つものがある。医療関係者によれば「抗がん剤治療中の患者や妊産婦にとって、強い香りは生命を脅かすものとなりうる」可能性がある。香りを放つすべてのものは、時と場合をわきまえて、適切に扱う必要がある。

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