万葉集といえば、この歌。
万葉集と言えば、わたしは、この歌がいちばん好きです。
石走る垂水の上のさわらびの萌え出づる春になりにけるかも
鮮やかな、春の色彩が目に浮かぶようです。作者の見ていた風景を、見てみたいものです。
水の音(聴覚)、春の匂い(嗅覚)、気温(皮膚感覚)、さわらびの色彩(視覚)、それになんだか美味しそうでもありますし(酢みそ和えになりますかね?)、五感に訴える要素すべてが、凝縮されていて、その場にいるような気持ちになります。
地域性から言えば、愛媛県松山市に住んでいるので、なじみがあるのは、この歌です。
熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな
道後温泉に向かう道後商店街に交差する石畳の道があります。「にきたつの道」という名前です。そうです、歌にある、熟田津です。
この道に沿って、水口酒造という地酒メーカーがあります。「清酒 仁喜多津(にきたつ)」や、「道後ビール」という地ビールを作っています。食事のできるお店「にきたつ庵」も併設されていて、愛媛の魚介と酒を味わえるとあって人気です。
地ビールはおつかいものによいので、しばしば利用しています(水口酒造「商品一覧」)。
そんなわけで、このふたつの歌、サンプルデータに利用したりもします。
Windows Phoneが発表されたころ、Microsoft Developer Network > サンプル(旧・コードレシピ)に、 [XAML/VB] [日本語の詩句を、絵巻物のように縦書きで表示するには (Silverlight/Windows Phone)] というサンプルプログラムを提供しました。日本語の縦書き表示を無理やり実装したものです。
愛媛県松山市と言えば、額田王!です。来松の折には、ぜひ、にきたつの道を散策して、道後ビールを味わってください!
万葉集、いいですね。
短い文字列のなかに、膨大な情報のトリガが埋め込まれています。鑑賞者は、ゆたかな情景を描き出して味わうことができます。
与えられる情報はわずかですが、それから生成されるイメジの拡がりには、果てがありません。
こうした、言葉による心の中へのイメジの喚起は、日本語に限定されません。言葉を使うヒト共通のものです。
たとえば英詩においては、読者の中に構築される像を表す語を「イメジ(image)」と呼び、複数の像を表す語および語句を「イメジェリ(imagery)」と呼びます。イメジェリは、誤解を恐れずに言えば、イメジのコレクションです。イメジェリはまた、抽象的な概念を、具体的な言葉によって表出する、比喩的表現でもあります。日本語でも英語でも、鑑賞者は、言葉から、イメジやイメジェリを心の中に生成することができます。
今では、計算機の処理能力が向上し、メディアが大容量化し、膨大な情報を伝達できるようになりました。
鑑賞者の心の中に像が結ばれる前に、作り手の発信した像がダイレクトに届きます。発信される像は次々と休む間もなく届くので、鑑賞者は受け身になってしまいます。膨大な情報の高速処理をもとめられる鑑賞者は、その能力を伸ばすでしょう。能力が伸びるのはよいことです。
しかし、過剰適応してしまうと、与えられる情報を処理する能力は向上したけれども、言葉からイメジを喚起する能力が衰えてしまった、ということになりかねません。イメジを喚起する能力が基盤になければ、イメジェリの放つ抽象的概念には、なおのことアクセスしにくくなります。
膨大なデータを高速処理する能力を磨く行為と努力には価値があるけれども、それだけに特化したり、それを目標としてしまったら、AIがほくそ笑むだけになりそうです。そうした処理能力では、AIのほうがはるかに勝っているでしょうから。
ヒトがすべきことは、情動のエネルギーを喚起し続けること、情動のシーケンスの生成装置としての役割を果たすこと。情動を呼び覚ます活動をして、他者の情動をも呼び覚まし、反響し合い、ときには共鳴し合うこと。生身であるがゆえの、喜び楽しみ悲しみ苦しみを、辛くとも面倒でも嫌になっても、(諦めて、仕方なく......)、引き受けることだとおもいます。
「こころの廃用症候群」になってしまわないよう、ときには、ネットの情報の洪水から意識的に身を離して、できるだけ情報を遮断した静謐のなかで、言葉と向き合う時間を設けることが必要かもしれません。