無償の技術継承。昭和の時代のエンジニアたちの休日。
昭和40年代の話である。
私の父は、強度計算の専門家だったので、休日になると、数名の若いエンジニアたちが、教えを乞いに、我が家を訪れていた。自宅の6畳一間は、小さな技術コミュニティのセミナー会場のようだった。
無口な父からノウハウを引き出すのは難しいはずだが、入れ代わり立ち代わり、若い人たちが訪れていた。
父は旧制中学卒業後に医師を目指していたが、戦争で予科練に駆り出される寸前に終戦となり、当時多くの人がそうであったように結核を患い、治癒した30歳頃から数学と物理学を独学した。母によれば、当時、市内に国立大学の出先機関があり、研究者に教えを乞うこともできたらしい。
自分も無償で習い、後進にも無償で伝える。そして、若者は長じて専門家になる。
このサイクルによって、技術は厚みを増す。
エンジニアたちには、おそらく昔から、そういう習わしがあるのだ。
伝えられるのは、知識だけではない。仕事への取り組み姿勢を伝えることにより、技術倫理の劣化を防ぐことができる。
我が家を訪れる若いエンジニアたちのために、母は、ハンバーグを焼いた。
母は奇妙なこだわりを持つ人で、生焼けは怖い!と、牛挽肉を一度茹でた後に炒めた玉ねぎと混ぜるものだから、焼きあがったときには、片面が黒焦げである。そんな焼き過ぎハンバーグを、食パンにはさんで、バーガーもどきを作っていた。
小学生だった私は、自分の考えたレシピで、レモネードを作り、父と祖母が楽しんでいた赤玉を失敬して、棒寒天を使って、ワインゼリーを仕込んだ。
若くておなかがすいているエンジニアたちは、それらをうれしそうにほうばっていた。
いやはや、昔から、若いエンジニアたちは、ハンバーガーと、ソフトドリンクと、スウィーツが好きだったのか。
父は、アニメが大好きだった。
帰宅すると、テレビの前に陣取る。とりわけSFアニメが好きだった。
当時、私の通学していた小学校では、夏休み前になると、東映まんが祭りのチケットが配布された。
私自身は、聴力が良すぎるうえに人に酔うから、映画館は苦手なのだけれど、毎年父のダシにされていた。
先生は、保護者と一緒に見に行きましょう、と言うのだが、ウチの場合、子どもが保護者に付き合っていたのだ。
いやはや、エンジニアには、アニメ好きのDNAが組み込まれているのか。
......父は昭和一桁生まれである。ヲタのハシリか。
もし、いま、父が生きていたら、後進たちと、技術の話だけでなく、ガンダムの話をしていたかもしれない。
子どもの名前を、聖ではなく、聖羅にしとけばよかったとか、言うのかもしれない。
父は原付で通勤していたので......痛スーパーカブに乗る父、とか、いや、あまり想像したくないのだが。
私がデザイン事務所に勤務していたころ、クライアントの関連会社に、ちょっと珍しい苗字の人がいた。
母に、こんな珍しい苗字がある、と話したら、「その人、昔、ウチに習いに来ていた、"A坊"だわ」
父が「A坊」と呼んでいた若い人は、中年になり、「A設計部長」になっていたのだ。
いま、技術コミュニティ活動に参加している学生たちも、年を経て、ベテランになっていく。
重厚長大であれ、IT業界であれ、技術コミュニティのありかたは、今も昔も変わらないのかもしれない。
※HD内に眠っていたメモ書きをなんとなく掲載。数年前に書いたものです。