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従来の貧乏、新しい貧乏、主張型貧乏。この30年の貧困の形。

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年末なので、下書きに眠っていたテキストを、公開しています。

30年ほど前の話である。
「新しい貧乏」という言葉が、そこかしこで、ささやかれ始めた。学術用語としてではなく、今の時代でいえば、流行語大賞に該当するような言葉だった。

「新しい貧乏」は、それ以前の「従来の貧乏」と、何が違ったのか?

従来の貧乏」とは、支払うべきものを払った結果、フトコロが淋しくなり、食うに困って節約また節約、「社会的に最低限とみなされる衣食住」に使うお金にすら事欠く、というものであった。いわゆる、働けど働けど楽にならざり、生活保護未満の生活に苦しむ、というホンモノの貧乏、であった。その背景には、女性の求人が少なかったことや、コンビニや外食産業などのアルバイト先がほとんどなかったこと、障害年金などの制度が知られていなかったこと、生命保険が充実していなかったこと、などの事情がある。一家の大黒柱である男性が病気や事故で働けなくなると、困窮するのは当然の成り行きだったのである。

それとは異なり、「新しい貧乏」は、節約をしなかった結果、支払うべきものが支払えなくなる状況に陥る貧乏、であった。
あまり考えずに外で飲食を続けていたら健康保険料を払うのが厳しくなったとか、衣服を買っていたら学費を捻出できなくなったとか、すこし趣味にお金を使いすぎて家賃が滞る、という類のものであった。

それが今では、「従来の貧乏」とも「新しい貧乏」とも異なる、「主張型貧乏」というものが現れているように思われる。
それは、権利を主張するタイプの新しい貧乏、である。

「従来の貧乏」では、本人は貧乏の原因を、事故や災害や病気などにあると考えていて、周りも、皆が皆、気の毒にと同情するものであった。

「新しい貧乏」では、本人は貧乏の原因を、自分の計画性のなさにあると考えていて、周りもそれを認めている、というものであった。本人は「節約できない困った自分。誰か助けてくれたらいいけど、無理だろうな」と思っているというものであった。

ところが、「主張型貧乏」では、本人は、貧乏の原因を、自分だけではなく、お金を支出させる支払先にもあると考えていて、周りには、その主張に同意する人だけでなく、同意せずに突っ込む人も何割かはいる、というものである。本人は、「無い袖は振れないのに、請求するなんて残酷。お金を請求する側は、払えるような方法を考えるべきだ」と主張する。その主張に対する周りの反応は、「従来の貧乏」に見られた、全員が揃いも揃って同情して涙する、というものではない。

「主張型貧乏」では、たとえば、大した節約をすることなく、ごく標準的な暮らしを続けた結果、年金保険料や健康保険料を払うのが厳しくなったならば、悪いのは、年金制度や健康保険制度であると主張する。(寝食忘れて働き、節約にいそしんでも払えないほどの人は、これには該当しない。また、自分の懐事情に関係なく公的制度そのもののあり方を問う主張は、これには該当しない。
また、たとえば、奨学金を受けて大学院まで進んだが、卒業後働き始めたものの予想より収入が少なく、返済できないのは、奨学金制度に問題があるからで、制度を見直すべきであると主張する(事故や災害により働けなくなった、などの突発的な出来事により返済のメドが立たなくなり、猶予をもとめる主張をすることは、これには該当しない。

「従来の貧乏」にも「新しい貧乏」にも「主張型貧乏」にも、すべてに共通するのは、本人の持っているキャッシュが少ないということである。その意味では、どのタイプも、貧乏なのである。だが、貧乏の内容が異なる。支払うべきものの優先順位が異なり、暮らしぶりも異なる

この記事は、何が正しいか、正しくないか、を問うために書いたわけではない。貧困について意見交換をしたいわけでもない
ただ、現在20代の人がまだ生まれていなかった時代に、「新しい貧乏」という言葉が生まれ、さらに今では、貧乏の形や定義がすっかり様変わりしてしまったことよ......という、隔世の感をつぶやいてみたにすぎない。

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