大昔の「ねるとん」という番組に、現在の非婚問題をかいま見た件。
その昔、ニュースを見た後、そのままTVを消さずにいたら、「ねるとん」という男女の出会いの番組が始まった。
何気なく見ていたら、これがなんとも恐ろしい内容で、背筋が寒くなった。
複数の男女が歓談し、最後に、交際したい人に、一言述べて握手をもとめるというものである。合意すれば交際が始まる。だから、相手に対して、どのような言葉を告げるかは重要である。
ところが、その重要なはずの一言が、とっても、怖かったのだ。
自分が相手に対して何をできるかを伝えるでもなく、一緒にこんなことをできないだろうか?と提案するでもなく、一緒にしてみたいことや、相手にしてもらいたいこと、という、自分側からの希望と要求を前面に押し出した、アピールの連続だったのである。
私は、人間関係のありかたが変わり始めていることに気付かされた気がした。
ビジネスでは、ギブ&テイクが明確であり、数値で見える化されている。
見積金額より少しあふれた作業を頼む顧客はいたとしても、見積の何倍もの作業を強制する顧客は、まず、いないし、いたとしても、その依頼は断ることもできる。
だが、プライベートでは、ギブ&テイクは不明瞭である。
不明瞭だからこそ、互いに、テイクを主張するよりも、先にギブを実行しなければならない。
そうしなければ、「妻は育児と家事とフルタイムの仕事をしているうえに夫の両親の介護が必要になるも、夫は自分の仕事と趣味に逃避、離婚が先か過労死が先か」 とか、逆に、「結構な給与を健康な専業主婦の妻に全額預けたら、少ないお小遣いを渡され、汚部屋でマズメシを強要されて食中毒で病院送り」 、といった関係が成立することになってしまう。(本人たちが、そうした関係を喜んで受け入れているのであれば、他人がとやかく言うことではないが)
どうやら結婚すると、仕事での折衝以上に外交スキルが試されることになるらしい......そう思わせるような情報がネット上に散見されるようになってしまったら、(古い言葉になるが)結婚は墓場だと思う人が増えても、おかしくはない。
昭和初期までは、自分から先にテイクを主張することは、図々しいとされ、はばかられた。そのような姿勢は、奥ゆかしさではなく、デフォルトだったのだ。
その世代の人たちから結婚当時の話を聞くと、昔は、「自らギブする者と自らギブする者」の関係のカップルと、「まずはテイクする者とまずはテイクする者」の関係のカップル、というように、はっきりと二分されていたようなのである。人を見る目のある仲人が、そのような関係になるよう、結びつけていたのであろう。
「ギブする者とギブする者」の組み合わせでは譲り合っていたわり合いながら末永く関係が続き、「テイクする者とテイクする者」の組み合わせでは、どちらも相手からテイクすることだけ考えて一歩も譲らないから、どちらか一方だけがギブし続ける関係にはならず、スッタモンダを繰り返しながらも、なんとか続いていくのだ。
ところが、昭和も半ばを過ぎ、団塊神田川世代が結婚するようになると、見合いは減り、まだ人を見る目のない若者同士が結婚にいたり、「自らギブする者とテイクする者」という組み合わせが増えていったのではないか。
そのような関係では、ギブする者はギブを要求され続けて疲弊する。テイクする者は、テイクしてはハードルを上げるが、いくらテイクしても満たされない。結果、子と多くの時間を過ごす方の親は、子の心を愚痴の最終処分場にしてしまう。
そういった両親を見て育った子らは、彼らの生活から学んでしまうのだ。結婚は誰も幸せにしないということを。両親は、日本全国の夫婦の中の一組でしかないが、それがデフォルトだと思い込んでしまうのである。
そして、いくらかの割合で残る「自らギブする者と自らギブする者」の二人だけが、結婚とはよいものであると信じて、非婚者に不思議の目を向けるのであろう。
結婚とは、本来は、よいものなのだろう。人間の多様性を知り、学ぶ機会を与え、さらには、新しい存在を作るという、最上級のクリエーティブ・ワークが可能な社会環境を提供するのであるから。
きっと、「自らギブする者と自らギブする者」の関係である二人ならば、金銭的な損得感情抜きで子を産み育て、婚姻関係を継続するのではないか。また、「テイクする者とテイクする者」の関係の二人ならば、子も含めて、ゲームのように人生をクリアしていくにちがいない。
二者間の関係は、交際関係に限らず、家族同士でも、友人同士でも、企業と就業希望者の関係でも、同じである。
もし、あなたが企業の採用担当者で、就業希望者が全員そろいもそろって、自分がどのようなスキルを持っていて、何を企業に提供できるかを述べるよりも前に、自分はこれだけの給与と待遇がほしいと言ったなら、そら恐ろしくは感じはしないか。
経営陣と労働者が「自らギブする者と自らギブする者」の関係である企業は、しなやかで、強い。経営者は社員に何を与えられるかを考えて実行し、社員が経営者の思いに応えて喜んで労働力を提供する。
「自らギブする者とテイクする者」の関係は、テイクした労働力によって一時的には発展するかもしれないが、いつか疲弊する。あるいは、逆に、経営陣がギブする側であると、従業員にナメられて立ち行かなくなる(ごく稀なケースだろうが)
ギブするより先にテイクを多く主張する行為は、自己愛的である。
「愛」とは、人生で一番大切なもの不可逆なものである「時間」を、相手に与えることであって、相手の貴重な人生の時間を浪費することではないはずだ。
他者の人生の時間は丁重に扱うべきだと考えてしまうのは、私が戦前の親世代の価値観を踏襲しているからだろうか?
我は我はと声高に自己愛全開でテイクを要求し続けなければ生き残れない、そんな世の中は勘弁してほしいものである(もっとも、既に、そういう世の中になっている気がしないでもないが)。
我々がもっとも恐れるべきは、ギブし続けるほど幸せから遠ざかっていく人が、生き方の方針転換をすることだ。「自らギブするなんぞ単なるお人よしだ、自分はなんてバカだったんだろう、勝者になるためにはテイクする側の人間にならなければ!」と考えて、テイクし始めることだ。
それでは、テイクする人間の割合が増えて、社会のバランスが崩れてしまう。本来ギブしていた者が踝を返すと、社会は短期間で弱体化する。
自らギブする側の人たちは、このことを考慮し、厳しい現実の中にあっても、テイクする側には鞍替えしないようにしたいものである。
我が国が諸外国に輸出できる最大の商品は「凛とした生き方、高い倫理観」ではなかったのか。
従来の倫理観が音を立てて崩れていく怖さを、私は、「ねるとん」という番組に、かいま見たのである。
ひょっとしたら、非婚化の解決策の一つは、「自らギブする者と自らギブする者」同士が出会えるような、マッチングシステムの構築にあるのかもしれない。